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2025年11月2日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

今まで何度か、一橋大学の楠木教授による「逆・タイムマシン経営論」的に事象を見る考え方に関するブログ記事を書いてきました。

それはつまり、

「歴史を読み返すことによって、それぞれが現在進行形で起こっていたまさにその時に世の中がどのように考え、行動していたかを確認することで物事の本質を浮き彫りにする」

という趣旨に基づいて物事を見る事例、具体的には「サイゼリアの頑固なコンセプト」「グレートリセット」「2025年東京不動産大暴落」などです。

今回、それらの事例と比べても圧倒的に興味深く、また私たちの実生活に最も密接した事例となりうる一冊を見つけましたので読んでみました。

それはまさに「インターネット元年」というべき1995年に書かれた「インターネット」です。

著者は、本書出版当時、慶應義塾大学環境情報学部助教授であり、現在はその先見性によって「日本のインターネットの父」と呼ばれるようになった村井純氏です。

本書を読んでみて私が抱いたのは、その内容に対する驚きとその著者である村井氏に対する尊敬の念でした。

というのも本書は、楠木教授が指摘したウォーレンバフェットの「潮が引いた後で誰が裸で泳いでいたかが分かる」という言葉に指摘される、潮が引いたあとで吟味されることは、自身が裸だった場合(一般的にはその可能性のほうが高い)、その時その時現在進行形で行動していた人にとっては非常に恐ろしく恥ずかしいことだという少し意地の悪い指摘を完全に裏切るような、ほぼ完ぺきな「予言の書」だったからです。

以下に私が特に印象的だと思った部分をいくつか引用します。

まずは、

「例えばインターネット上でワインのことを知りたいと思ったとします。何らかの手段でワインについての情報を扱っているホームページにたどり着きます。そしてそのホームページの指標に従ってどこか別のホームページに行きます。これを続けているうちに、自分の欲しいワインを売っているページになったりする。」

当時はまだウェブ上で必要な情報を得るためには「リンク」を頼りにするしかなかったことが分かる非常に興味深い発見だったわけですが、それでも

「スタンフォード大学の学生が行ったYahooというプロジェクトはとにかく電子的に集められるあらゆる情報をもとに索引を作り出すという努力を、初めは学生が興味本位でやっていたのですが、これがとても重宝だということで、今では事業として独立した企業として成り立っています。しかし、これも規模の面では不十分であることが指摘されています。」

というように、この著者をもってしても明確にイメージできていたわけではないにしても、最終的にGoogleが「検索サービス」によってインターネットの大部分を制覇するような大きなものにつながる種のようなものをこの時点で認識されていたことが分かります。

続いては、

「多くのユーザーがインターネット上に蓄積された情報の恩恵を受けるようになったこと自体は良いのですが、インターネットの情報を摂取するだけの人がどんどん増えてくると、却ってインターネット上に蓄積されて置かれている情報や知識の発展が停滞するのではないかという心配もあります。そのためには今のようなインターネットへの参加の仕組みを考えていく必要があるかもしれません。」

この時点(1995年)でのインターネットにつながるデバイスの数は、全世界で800万台だったそうですが、現在(2025年)では400億台を超えており、実に5,000倍の開きがあるので、まさか現在のように一般の人が自ら情報の提供者兼摂取者となるSNS時代の到来を明確にイメージすることはできないにしても、インターネット社会の肝がその「双方向性」にあるという前提の下で、当時の情報の一方向性(偏向性)を懸念されていたというのは特筆すべきだと思います。

最後に、

「私個人としては、二時間のビデオがインターネット出見ることができることは人間の知識にとってそれほど重要なプラスになるとは思いません。それよりも一秒あたり少ないコマ数でずっと短時間のビデオクリップがインターネットに乗ることの方が人間の知識にとって非常に役立つだろうと考えています。コンサートなどただ中継するだけなら無理をしてインターネットで話してもテレビ中継となんの違いもなくほとんど意味はありません。ただし、インターネット・プロトコルの技術に努力を集約して相互運用性を上げ、開発の効率を上げる可能性は追求すべきとは思いますが。」

これについては、現在のYOUTUBEやNETFLIX全盛の状況を鑑みれば、予想としては「大外れ」と言うべきかもしれません。ただし、著者はそのような技術は開発されるべきだし、その可能性を肯定的にとらえています。

このことの意味を少しだけ考えてみると、できることとやるべきことを区別することが大切なのではないかというメッセージに捉えられます。

というのも、昨今のこれら長時間の動画をインターネット上で自在に視聴できること、そしてそれだけでなくAIの運用と発展を実現するために原発何百基分の電力を使って「データセンター」を稼働させなければならないという現実に私たちは目を背けがちだからです。

このように、著者は超能力者ではないので、すべてのことを明確にイメージするということはないにしても、超初期の段階において、インターネットの「本質」をことごとく見抜き、その方向性を非常に正確に言い当てていたことが確認できました。

今でも超のつくアナログ人間であることを自覚する私ですが、もし1995年当時に本書に出会っていれば、かなりの精度のタイムマシーンに乗れていたかもしれず、私の人生もだいぶ変わったものになったのかもしれないと思わされる衝撃的な一冊でした。

 

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