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コーランを知っていますか

2024年7月11日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前々回ご紹介した「日蓮を読む」では、一般的に非常に読みにくいとされる「宗教」に関する本を非常に分かりやすく伝えるその技量に感動し、前回ご紹介した「日本はなぜ世界から取り残されたのか」では、「ユダヤ人に天才が多い理由」から「多文化を理解する習慣」の重要性を学ぶという得難い経験を立て続けにすることとなりました。

その経験によって、私の多文化理解のモチベーションが高まったことで、遂に今まで何度も手を伸ばそうとはしつつも、どうしても手が届かず長らく積読状態となっていた阿刀田高の「コーランを知っていますか」に手が届くこととなりました。

なにより、本書の帯には「コーランの一番易しい入門書」という文言が書かれていたことが大きかったです。

とは言いつつ、私も今まで全く無関心であったわけではなく、かつてこのブログにおいてもイスラム教およびその聖典であるコーランについて多少の知識は共有してきました。

特に、「聖典」に見るユダヤ教、キリスト教との関係については以下のようにまとめられるくらいには。

「イスラム教は、神がユダヤ教徒に『旧約聖書』を与えたが、ユダヤ教徒が神の言いつけを守らなかったので、イエスを通じて新たに『新約聖書』を与え、しかしキリスト教徒もまた神の言いつけを守らなかったので、最後にムハンマドを預言者として神の言葉を伝えたとする立場です。そして、その神の言葉を編纂したものがイスラム教の聖典である『コーラン』です。」

また、イスラム教が上記のように関係の深いこの二つの宗教となぜこうも仲が悪いのかということについても。

「それは、この三つの宗教が『アブラハムの宗教』と呼ばれ、文字通り兄弟のような関係にあるからだということが言えるのではないでしょうか。現代においても、赤の他人同士よりも兄弟の間での確執のほうが始末が悪いということはよくあることです。それが、聖書の時代から延々と続いているのですから、それは容易には解決できないはずです。」

今回は本書より、その「コーラン」の性質についてユダヤ教の「旧約聖書」とキリスト教の「新約聖書」の性質を踏まえながら、それらとの違いを明らかにしている部分を引用の上要約します。

「言ってみれば旧約聖書は『古代ユダヤ王国の建国史』、新約聖書は『イエス・キリストの伝記』であるのに対し、コーランは『親父(アッラー)の説教集』だ。あくまでも説教だから論理的ではなく部分も多い。いきなりドカンと降ってくる。事実の誤認もあるし牽強付会(自分の都合のよいように無理に理屈をこじつける)部分もある。断片的な言いようが多いから前後の事情を知らないと分かりにくい。そして、くどい。同じことを何度も言う。しかし、それは内容のことではなく、論述の方法においてだ。しかも、この親父は経験豊富で知識も広い、えらいえらい親父なのである。」

これを読んで本当に面白く笑いそうになってしまったのですが、「法華経の現代語訳」を紹介した本ブログ記事の以下のような内容を思い出してしまいました。

「主語と述語の対応の不明確さ、内容の重複(しかも表現が微妙の違う形で)、過剰な形容などのオンパレードで、非常に読みにくい日本語の典型例とも言うべきものにとどまっていました。」

最後に、「最高にして最終の預言者」と言われるムハンマドが神の最終的な啓示を記録した「コーラン」をのちの人々がなぜそれを疑いもせずに、「正しいもの」として信用することができたのか(これはイスラム教だけではなく、ユダヤ教やキリスト教も含めてということにもなるとは思いますが)、本書からその重要な疑問の答えに迫る言及を引用してみたいと思います。

「『私は神の啓示を受けたんだ』と告白する人に対して『そりゃ幻聴だよ』とはなから否定するのもいささか越権のような気もする。世間には嘘をつく人もいるだろう。理性の曇っている人もいるだろう。だが、その人の人柄と行動をつぶさに観察して、『こりゃ、やっぱり彼は啓示を受けたんだ』と思うことはないでもない。人間は他人を騙すことはできても自分を騙すことはむつかしい。自分の体験は自分の中で生きている。たとえば、キリスト教の使徒パウロは間違いなく優れた理性の持ち主であり、そのパウロが生涯を通じて命がけの布教に殉じ得たのはパウロの心の中に、『自分はあそこでイエスの召命を受けた』という固い確信があったからだろう。自分に疑いが少しでもあったら、長い年月にわたってあれほど執拗な努力は続けられなかったはずだ。そして、ここまで至れば、本当に神の啓示を聞くことと、当人が神の啓示を聞いたと疑いもなく迷いもなく信じることとの差は小さい。どのみち、区別はできないし、区別をしたところで実質的に意味がない。マホメットについてもその後半生の執拗な努力と確信に満ちた行動を眺めると『やっぱり啓示』はあったんだ」と無神論者にも信じたくなるところがある。」

実際に、著者一人が信じたくなっただけではなく、現在のところ世界のキリスト教徒23億人、イスラム教徒18億人、合わせて世界人口の40%以上がそれを確信しているわけです。

まさに「区別はできないし、区別をしたところで実質的に意味がない」ということです。

先ほどの「親父の説教はなぜくどいのか」の話に戻りますが、コーランも法華経も基本的に私たちのようは普通の民(衆生)は、一度では決してわからないからあえてくどくしているということなのかもしれないということです。

何度も何度も、「くどいな~」と思いながらも聞かされ続け、大人になってから様々な経験をする中で、そのことが正しいことをしんみり理解することができるようになる。

著者はこのことを「親の説教と冷酒は後になって効く」と表現しています。(笑)