
タワーと橋の下と平和賞と
2026年5月10日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。
先日(2026年5月8日)の読売新聞夕刊の「よみうり寸評」に対照的な人物比較に絡んだ興味深い記事がありました。
以下に、記事を引用します。
「スイスの実業家アンリ・デュナンは旅先で悲惨な光景を目にした。1859年、イタリア統一戦争の激戦地での出来事である。大勢の死傷者が横たわる地で、デュナンは懸命に救護にあたる。敵味方の区別なく命を救う組織の必要性を痛感した彼の声はやがて、国際赤十字の創設につながった。第一回ノーベル平和賞を受賞したのは1901年のことだ。そんな偉人もビジネスセンスはなかったらしい。事業に失敗して破産し、橋の下で夜を明かすような放浪生活も経験したという。不動産王として名を成し、『平和賞が欲しい』と意欲を燃やしたトランプ米大統領とは何もかもが違って見える。デュナンとは対照的に敵味方の区別を明確にして分断を煽る発言が世界を混乱させている。デュナンの誕生日にちなみ、今日8日は『世界赤十字デー』。イランとその周辺国では赤十字などによる必死の救護活動が続いている。」
まず、赤十字の創設者について今まで全く関心も抱くことなく、本記事によってはじめてその人が医師ではなく実業家であったことを知った自らを恥じました。
そこで、もう少しこの実業家のプロフィールをウィキペディアからの引用によって掘り下げたいと思います。

「ジャン=アンリ・デュナン(1828-1910)スイス・ジュネーブの厳格なカルヴァン派の伝統の中で育ち、ポール・ルラン・エ・ソテ銀行に就職しながら、キリスト教活動にも尽力する。イギリス人のジョージ・ウィリアムズが創立したYMCAの下部組織として『ジュネーブYMCA』を設立する。勤務先の銀行からアルジェリアへの出張を命じられる。そこで差別と迫害と貧困に苦しむ現地のアラブ人やベルベル人に衝撃を受けたことから、翌年の1854年に銀行を退職、さらに翌年には『YMCA世界同盟』を結成する。1858年にアルジェリアで現地の人々の生活を助けるための農場と製粉会社の事業を始めたが、事業が上手く行かず借金が嵩む。(その際に、事業の支援をナポレオン三世に請願しにイタリアを訪れたのがちょうど上記の記事の冒頭にあった出来事のタイミングである。)その救援活動をしている地元の女性たちとともに自らも救援活動に参加し、1週間滞在した。何故敵味方分け隔てなく救済するのかと尋ねられ、『人類はみな兄弟』と答えたのは有名。1863年、ジュネーヴで『国際負傷軍人救護常置委員会』が結成され、デュナンはその委員に選出され、国際組織赤十字社の誕生に発展していくことになる。その一方で、デュナンの人生は転落していった。1865年に理事を務める銀行が倒産したのをきっかけに、アルジェリアでの事業が決定的な打撃を受け、株主らから裁判所へ訴えられたことで、1867年、委員を辞職し、故郷のジュネーブを去り、生涯戻らなかった。辞職後、裁判所から破産宣告を受け、約20年もの間、消息を絶つ。その後、赤十字の活動範囲は戦争捕虜に対する人道的救援、一般的な災害被災者に対する救援へと拡大していったが、彼自身はこの活動から身を引き、世間からも忘れられていった。しかし、1895年、スイスの新聞の編集者がデュナンを訪ね、彼の書いた記事が大きく掲載されると、長い間忘れ去られていたデュナンの功績が再び脚光を浴び、1901年「第1回ノーベル平和賞」の受賞につながった。82歳で静かにその生涯を閉じるまで、質素な生活を貫いた。死後、ほとんど手付かずだった賞金は、遺言により、スイスとノルウェーの赤十字社に寄付された。」
不動産事業で大成功し、ニューヨークの一等地のタワーの住人でありながらノーベル平和賞を受賞した人のメダルをむりやり「贈呈」するように仕向けるという「それってどういうこと?」とそのニュースを見て思わず突っ込みたくなるような人と、「人類はみな兄弟」を標榜して本当の意味での人道救援を行う組織を創設したにもかかわらず、自らは事業に失敗して破産し、橋の下で夜を明かすような放浪生活も経験しながらも、全く自分が求めることもなく自然とノーベル平和賞が舞い込んできた人との対比はあまりに強烈でした。
もはやこの対比自体が悲劇なのか喜劇なのか判別がつかずに思わず「それってどういうこと?」と言ってしまいそうになるのは私だけではないと思います。









