メディアはなぜ左傾化するのか
2024年8月10日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
アメリカのバイデン大統領の大統領選撤退までのニュースをお伝えした一連の記事の中で私は、以下のようなことを書きました。
「今回、バイデン大統領のこの判断によって次の二つのことがアメリカという国の中で確認されたと私は思います。一つは、マスコミが自らの仕事が『世論の抽出』ではなく、『世論の形成』であるという圧倒的な自覚に基づいて行った行為が確実にその対象に影響を与えたということ。そしてもう一つは、民主主義の手続きを踏んだうえで『既に民主党の候補指名を確実にしている』バイデン大統領自身が、自身の正当性とマスコミのその行為の重要性を鑑みた結果、自身がアメリカ国民全体の利益に資する可能性の高い選択を最終的にしたということです。」
その上で記事の最後に、「私にはこのようなアメリカのダイナミックさが非常に魅力的に映ります。」という感想を述べました。
今回のアメリカの政治におけるダイナミックさの源泉は間違いなくマスコミがきっかけになっているわけですが、ではなぜ、日本のマスコミはそのような動きをすることができないのか。
どうしようもなく、アメリカのダイナミックさをうらやましく思うと同時に、この疑問が私の中で湧き上がってきてしまいました。
そこでその疑問を解消するきっかけになるかもしれないと思い選んだのが、「右翼メディア」と揶揄されることも多い産経新聞の記者(本人はそれは誤解だと強く主張されています)として他社メディアの動きを見てきた経験から書かれた「メディアはなぜ左傾化するのか」という一冊でした。
実際には、この思想的なにおいがプンプンするタイトルからは程遠い、血の気が多く、後先を考えない取材活動によって会社からも、取材対象からも、そして競争相手である他紙の記者からも疎まれて損ばかりしてきた筆者の「奮闘記」そのもののような内容でした。
ですので、本来の「疑問解消」という目的に即していえば、本書は完全なハズレと言わざるを得ませんでした。
とはいえ、すでに新聞社を退社されている著者だけあって、新聞記者の取材が実際のところどのように行われているかについて非常に生々しく、そして赤裸々に描かれていることから、「奮闘記」としては純粋に面白い内容でした。
また、曲がりなりにも「メディアはなぜ左傾化するのか」という思想的なタイトルを付けられた理由の片鱗として、引用したいと思える部分はありましたので以下にご紹介します。
それは「金嬉老事件」におけるメディアの対応の変化について著者が指摘した部分です。
まずは、この事件の概要を記載しておきます。
「1968年、当時39歳の在日朝鮮人二世の金嬉老が静岡県清水市のクラブで金銭のトラブルから暴力団員2人をライフル銃で殺害したあと、乗用車で大井川上流の寸又峡に逃亡し、旅館に立て籠もった。金はライフルのほか実弾とダイナマイトを持ち、旅館経営者と宿泊客を人質にとると、翌21日未明に清水署に自ら通報、居場所を伝え、前年に別の事件で清水署で取り調べを受けた際、朝鮮人差別発言をした刑事に謝罪させるよう要求した。旅館には、警察とともに大勢の報道陣が詰めかけ、金は彼らを相手に共同記者会見を開くだけでなく、同宿取材も許可した。また、テレビのワイドショーに電話出演するなど、籠城中ひっきりなしにメディアに登場し、朝鮮人差別を告発するために事件を起こしたこと、自分がいかに過酷な境遇のなかで育ってきたかを懸命に訴える。要求した清水署の刑事の謝罪は21日にテレビを通じて行なわれたが、差別発言そのものには言及がなく、あらためて謝罪を求め、籠城を続行する。この間、自殺をほのめかした金を翻意させるべく、過去の事件で知り合った掛川署の元署長や、彼の主張を支持する文化人グループが説得を行なったが、彼は聞き入れず、籠城5日目の24日には、静岡県警本部長が清水署の刑事の発言についてあらためてテレビを通じて謝罪。同日午後、金は同宿者を解放するため旅館から出てきたところを、取材陣にまぎれこんだ刑事に取り押さえられ、逮捕にいたる。殺人・監禁・爆発物取締罰則違反等で起訴された彼は、一審、二審とも無期懲役の判決が下され、1975年には最高裁上告も棄却され、刑が確定。」
以下、本書より著者の指摘を要約引用します。
「事件当初から大学教授や作家、弁護士、牧師らが、金に迎合するような説得を行い、それをメディアが取り上げるということが続いた。21日あたりからメディア各社は警察側の警告制限を無視して取材合戦を繰り広げ、それは激烈を極めた。金は23日から、『新聞を見せろ』と要求したため、警察は新聞記事が金を強く刺激することを恐れて現地の記者の引き上げを要求したがほとんどのメディアがこれを無視し現場に居残った。このあたりまではメディアは金へのシンパシーを隠さなかったのだが、事態は銃弾によって一変する。24日朝記者が面会を要求したのに対して、金がこれを拒否し、カメラマンの足元に向けて威嚇射撃をした。報道側も盛り上がり、『警察が説得対策ばかりやっているのは手ぬるい』と非難する者も現れた。その直後金の逮捕が実現された。要はさんざん金を『民族差別の犠牲者』と書き立てて持ち上げ、当事者の警察関係者、果ては県警本部長にまで謝罪させていたのに、自分たちが発砲されると『警察は手ぬるい』と言い出したのだ。全く自分勝手な言い草だとしか言いようがない。」
私は、これを読んだとき、「左傾化するメディアの正体」を垣間見たような気がしたのです。
一般的に世の中が盛り上がるのは「反権力」、であるならば自らが安全な立場にいる平常時にはメディアは「左傾化」していたほうが有利なわけです。
そして、極端な左傾化はすなわち、「当事者意識の欠如」の表れだともいえると思います。
そこには、以前「マスコミの本当の仕事」の記事で述べたような自らの信念(左右を問わない)に基づく「世論の形成」という目的は全く見出せません。
そして、図らずも自らに危機が生じたような場合には、「自らの身を守ること」だけを目的とした「当事者意識」だけがあらわになるということです。
個別のマスコミが、右であっても左であっても全然かまわないと思います。
ですが、「右傾化」でも「左傾化」でもいいから、とにもかくにも「当事者意識」を持って「世論の形成」の努力を惜しまない気概を持ったマスコミが日本にも現れることを強く望みます。