建築というリアル
2016年12月4日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
非常に難解ですが、同時に非常に考えさせられる本を読みました。
「建築的欲望の終焉」という本です。
これは、あの2020東京五輪・パラリンピックの主会場となる新国立競技場国立競技場のデザインで、ザハさんの案がボツになった後のデザインを手掛ける建築家の隈研吾氏が書かれたものです。
人間の欲望の対象として、マネー(金銭)と建築(不動産)はその代表例として捉えられると思いますが、私たち人間は、1929年のニューヨークに端を発した世界大恐慌、平成の日本を襲ったバブル経済の崩壊などによって、マネーも建築もその熱狂から一瞬にしてさめさせられて、その価値を失ってしまった経験をしています。
しかし、この二つの間には大きな違いあります。
それは、「実体」の部分の存在がのこるかどうか。
それぞれの価値の評価の中に、虚構の部分と実体の部分が両方存在しており、価値の上下は、虚構の部分にのみ起こり得るものだということです。マネーはそのほとんどが虚構です。それに対して、建築は、流行などの虚構部分と、空間という実体の部分が存在します。
ですから、バブルの時には、この流行の部分が実体からかけ離れて、あまりにも大きく評価されるというわけです。
実際に、ニューヨークのエンパイアステートビルは、大恐慌の後すぐは、できたばかりであるにもかかわらず、空室だらけの孤独な姿をニューヨークの雲の中にさらすことになりましたが、100年近くたった現在は、空間として十分に評価されてその価値を誇示しています。
ですから、建築のその実体の部分をしっかりと評価できる者は、その虚構部分の評価が最低な時期に本質的な経済活動を行う基礎を手に入れることができるということなのだと思います。
それに関連して非常に印象的だったのは、著者の「オフィスビルに住もう」という考えです。
オフィスビルは、9時から5時までしかその空間からの経済便益をしないことが初めから決められているという仕組みです。これは、そもそもあまりに非合理ではないかということです。
5時から9時まで居住空間としても活用することで、通勤時間はなくなり、オフィスにあるパソコンが一日中使えるし、仕事の効率の向上とともに生活の質の向上にもつながるはずです。
このように捉えることはまさに、空間というリアルの価値を本質的に評価することそのものだと言えるのではないでしょうか。