「強い日本」を作る論理思考
2021年11月19日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
このブログで何度もご紹介しているデービッド・アトキンソン氏と竹中平蔵氏という二人のビッグネームによる対談を一冊にまとめた「「強い日本」を作る論理思考」をご紹介します。
お二人は、この本を出版するに至った動機の最も大きいものとして、日本が様々な分野においてあまりにも「論理」とかけ離れた意思決定を行っていることの問題点を明らかにする必要性をあげられています。
それほど日本は政治経済のみならず、あらゆる分野において「論理」がないがしろにされているということをこれでもかというくらいに訴えておられて、そのことに対する憎悪さえ伝わってくる勢いでした。(笑)
日本において現在進行形で「論理」が全く機能しないことから大きな混乱を引き起こしている問題を取り上げた部分を本書より以下に引用します。
「アメリカに限らず多くの国では、戦争という非常事態時におけるガバナンス体制を持っています。普段政府は命令など下しませんが、いざという時は命令を出して、それに対応させる。そうしたシステムや法体系を社会全体として持っていないと困るのです。ところが日本にはそれが全くない。しかも政府と地方があいまいな分権になっていて、そこから起こった一つの問題が病床数の逼迫です。『感染者用の病床を確保』は国ではなく知事の仕事なのです。一方、日本の医療体制は完全な二重構造になっていて、一つは国立病院や公立病院、もう一つは医師会に属する民間病院です。今回のコロナ禍において24時間体制で働いているのは主として国立病院や公立病院の医師や看護師です。これ以上病床数を増やそうと思ったら、民間病院に求めるしかない。ところがそれを実現しようと思ったら、知事は地元の医師会と戦わなければいけない。それをやりたくないから、病床数をこれ以上増やせないことを前提にして、『とにかく感染者数を減らせ』という傾向があるのです。」
世界の先進国では、普段は規制のない自由な活動を認めながら、緊急の時には国全体の「最善」のため、その自由を強権的に停止するという「メリハリ」のある仕組みがある一方、日本では普段から中途半端で意味の分からない(既得権者のための)規制に縛られた活動を強いられながらも、緊急時にもその中途半端な規制をも停止する権限が政府にないという八方ふさがりともいえる仕組みになっているということです。
しかも、ここまで状況が深刻になっているのにもかかわらず停止することができないのは、法的な仕組からというよりも、既得権をもつよく分からないところからの圧力が原因だともいわれます。
それはつまり、停止すると「規制」の意味のなさがばれてしまい、その後恒常的に変革するきっかけを作ってしまうことになるからではないかと疑わざるを得ません。
このような日本の状況に対して、お二人が「論理」がないがしろにされているとして「憎悪」を抱いているというのが本当によく分かります。
コロナウィルスとの戦いが始まってから2年近くたち、このコロナに対する情報は国(政府)が最もたくさん収集しているはずです。
そして、それによって何が最も「最善」の策であるかということも分かっているはずです。
コロナ禍は「感染者数」だけが問題ではなく「経済危機」の問題でもあるわけで、専門家は意見を求められれば、それぞれの分野に関係する問題解決のみに対して最大の効果を発するアドバイスをするでしょうが、政治家はそれらの情報をすべて一旦受け止めて、国家的に最もバランスのとれた「問題解決」の策を導き出すことが仕事であるはずです。
この姿勢こそが「論理」であるはずです。
しかしながら、現実は感染症の専門家の発言を政治が受け止める前にマスコミを通して「ダダ洩れ」し、それをワイドショーという名のバラエティー番組が取り上げ、国民の不安をあおり、「コロナゼロの追求」という永遠に問題が解決されないバランスの崩れた流れを作ってしまっています。
結果作り上げられた「国民の声」による流れを政治が後追いせざるを得なくなるという最悪のパターンとなってしまいました。
情報と権力を握る政治が、データによる「論理」ではなく、ワイドショーによる「感情」によって左右されるのであれば、何のために存在しているのか全く分かりません。
時節柄、コロナの話ばかりしてしまいましたが、本書はコロナに限らず日本においてはこのような「論理」をないがしろにする分野がそこら中にあることを示してくれ、なんとも息のつまるような思いをさせられますが、まずは現実を受け止めることが大切だと思います。