
思考の整理学
2026年5月25日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。
前回ご紹介した「人はなぜ物語を求めるのか」の記事の中で次のような本書での指摘を紹介しつつ感想を述べました。
「人間はストーリー以外にも世界を把握する枠組みを持っています。例えばアナロジー(類推:たとえ話)で、これは似たものと比べることによって世界を把握しようとする枠組みです。確かに、話が上手な人はこの二つの枠組みを合わせ技で駆使することに長じているなあと思います。」
先日、たまたま偶然に本屋さんで「東大と京大の学生協にて歴代販売No.1」という帯に書かれた広告文句に惹かれて外山滋比古の「思考の整理学」を少しだけ立ち読みをしたら、本書がまさに「ストーリーとアナロジーの二つの枠組みを合わせ技で駆使する」という仕組みで文章が構成されていることに衝撃を受け、即購入し読了しました。
外山滋比古の著作については、今まで本ブログでも「日本語の論理」「読書の方法」「英語の発想・日本語の発想」の三冊をご紹介済みでしたのでそのハズレのなさには自信がありました。
以下に本書の印象的な記述を三つ引用します。
まずは著者による「ストーリーとアナロジーの組み合わせ」として秀逸だと思った箇所です。
「文学研究ならばまず作品を読む。読んでいくと感心するところ、違和感を抱くところ、分からない部分などができてくる。これを書き抜く。こういう部分が素材である。ただ、これだけではどうにもならない。ビールを作るのに、麦がいくらたくさんあっても、それだけではビールはできないと同じことである。アルコールに変化させるきっかけになるものを加えてやる必要がある。アイデアである。これは素材の麦と同類のものではいけない。異質なところから持ってくるのである。それは作品の中に求めるわけにはいかない。読書、テレビ、新聞などどこに潜んでいるか知れない。このアイデアがビール造りなら醗酵素にあたる。書き抜き(素材)とアイデア(醗酵素)さえあればすぐ醗酵してビールになるかと言うとそうではない。しばらくそっとしておく必要がある。すなわち、『寝かせる』のだ。頭の中の醸造所で時間をかける。あまり騒ぎ立ててはいけない。しばらく忘れるのである。」
まさに「ストーリー(時系列)」と「アナロジー(たとえ話)」の組み合わせで、本質的に非常に抽象的な「思考の整理」のプロセスを見事に分かりやすく私たちに伝えてくれています。
本書にはこれ以外にもこの二つの組み合わせの成功例がたくさん登場するのですが、それが何というかわざとらしさがほとんどなく、思考を整理するということはこういうことなんだと納得感が高い知的経験をさせていただきました。
次に引用するのは、「素材とアイデア」を捕まえるための方法に関する箇所です。
「何か頭に浮かんだら、これを寝かせておかなくてはならないとしても、ついつい気になって寝かせたことにはならなくなってしまいがち。だから書き留めておくことだ。それだけで安心する。それでひととき頭から外せる。しかし、記録を見ればいつでも思い出せるので、これで解決。もう一つ、記録する必要があるのは、寝かせるのではなく、とりあえず捕まえる必要のあることだ。ふっと頭に浮かんだものはふっと消えてしまいやすい。いったん消えてしまうと、どんなに思い出そうとしても、二度とよみがえってこないことがある。その時さほどではないと思われることでも、後々どんなに素晴らしくなるか知れない。その場でノートにメモする癖をつけないと逃してしまいかねない。」
今からもう17年も前になりますが、私もこのブログで「こぼれ落ちるアイデア」という記事を書いて、「情報を一冊のノートに集める」ことの重要さを理解し、その時から現在まで常にノート持ち歩いて何か思いついたり気になる文に出会ったりしたらすぐに書き写す癖が完全についています。
最後は、具体的な醗酵のさせ方に関する箇所です。
「そうして捕まえた素材とアイデアをある程度時間のたったところで見返してやる。すると、あれほど気負って名案だと思って書いたものが、朝陽を浴びたホタルの光のように見えることがある。つまり、寝かせている間に息絶えてしまったのである。寝かせている間に太らないようなものは縁がなかったのである。見返してもやはりこれは面白いというものは脈がある。それらはそのままにしておかないで別のところで少し寝心地を良くしてやる。別のノートを準備してそちらに移してやるのだ。日付や見出しを作り、前のノートにあったことを箇条書きにして書き入れる。前は三つくらいしか要点がなかったものが寝かせている間に五つにも六つにもなっているなら寝かせていた間に膨らんだ証拠だ。こうやって生き残ったアイデアをさらに寝かせて、醗酵をすすめさせ、考えが向こうからやってくるようになれば、それについての考えを文章にしてまとめる。これを『メタ・ノート』と呼ぶ。」
実は、私はこのことをこのブログ記事を書くときにすでに実践しています。
ただ、別ノートにはせずに一冊のノートで文章にするところまでやっているので、厳密には著者のやり方に従っているわけではありませんが、読書をしながらノートに書き込み、ある程度時間が経った後、それを見ながらブログ記事にしている(文章にしてまとめる)というスタイルはほぼそのプロセスを踏襲していると言っていいように思いました。
著者はこのプロセスを「古典化」のプロセスであるとも言っています。
作者の手を離れたばかりの作品は、まだ寝かされ切っておらず(世間から忘却されていない)、読者の忘却の層を潜り抜けて初めて古典となりうる、つまり古典は作者自らが作ろうと思って作れるものではなく、時間だけがそれをできるのだということです。
著者は、「思考の整理には忘れることが大切だ」と冒頭から繰り返されていましたが、最初いまいちピンとこず、読者の関心を取るだけのフックに過ぎないのかなと穿った思いを持っていましたが、ここまで読んで完全に納得できました。
1983年出版の本書がいまだに「東大と京大の学生協にて歴代販売No.1」であるのも当然だと思います。









