恥ずかしい人たち
2020年9月11日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
前回、「同調圧力」という本をご紹介して新型コロナウィルスの世界的な蔓延以降の日本特有の「息苦しさ」について考えました。
今回は、そのような「息苦しさ」を作り出している人たちの性質を掘り下げた先に、「恥ずかしさ」と形容されるべき性質があるという視点から書かれた本をご紹介します。
以前にこのブログでご紹介した「ウェブはバカと暇人のもの」の著者である中川淳一郎氏の新刊「恥ずかしい人たち」です。
著者は、本書を「壮絶にダメな大人」の図鑑であると自ら評しています。
前著の時もそうでしたが、著者は長年ウェブの世界でライターや編集をやってこられただけあって、非常に表現が直接的で攻撃的です。
そのため、本書であげられている「恥ずかしさ」の例に対しては、すべてに共感できるわけではありませんでしたが、共感できるものはとことん共感できる分かりやすさがありました。
私がとことん共感できた部分を以下にご紹介したいと思います。
著者は、本書において「同調圧力」に似た意味で「ギスギス感」という言葉を使っており、そのような感覚が感じられる事例として、次のような「リベラル」と「保守」の対立をあげています。
「乱暴にまとめれば、とにかく何かあると『アベのせいだ』というのが前者で、それに対して『お前は隣国の回し者だ』と言い返すのが後者である。両者は口論が生きがいなのかと思えるくらいにいつも喧嘩をしている。厄介なのは双方とも己の正義を疑わないことだ。」
この両者の口論が堂々巡りとなるのは、お互いに自分の頭で物を考えず、他人から与えられた考えを自分の考えだと思い込み、その考えに基づいてとった行動に対して責任を取らない姿勢を崩さないからです。
私には、この著者の指摘が、大人としての「恥ずかしさ」の本質を象徴しているように思えました。
その上で著者は、この問題の解決方法について以下のように述べています。
「この問題を解決するには『当事者』になることです。現在私はとある障害者・Aさんと一緒に密接に仕事をしています。車いすがないと移動ができないAさんと一緒に仕事をすることにより、バリアフリーや障碍者差別に関する意識が高まり、街を歩いていると常に『Aさんと一緒にここに来られるかな?』という視点に立つようになりました。『意見が異なる者同士、話し合いは困難』は真実ですが、いろいろ経験し、『当事者性』を獲得することにより何年後かに分り合えたりもします。」
奇しくも、著者の前著の「ウェブはバカと暇人のもの」をご紹介したブログの中で私は以下のような感想を述べました。
「(東日本大震災の時)あれだけ、日本全体が『東北のために何かしなければ』という気持ちで一致していたはずが、被災地の瓦礫の受け入れを決断した自治体の多くが、市民の反対によって断念せざるを得ない事態が起こりました。この現象は、まさに、なんら責任を負っていない匿名の個人として発信することで、『絶対に勝てる論争』を高みから仕掛けているうちだったら、建前をいくらでも振りかざすことはできるが、一旦自分自身に責任や負担がふりかかった瞬間から、本音で語らざるを得なくなることを如実にあわらしたと思います。」
著者のこの言葉からも分かるように、「当事者性」は自分自身が経験しないとなかなか得られるものではありません。
しかしながら、全てのことを人間は経験することは不可能ですから、意識的に想像力の力を借りる必要があると思います。
とは言いながらも、著者自身を「恥ずかしい人」のリストの中に入れていますし、自らを「恥ずかしい人」と自覚している人は本質的には「恥ずかしくない人」であり「立派な人」になりうるのかなとも言っています。
つまり、自らを「恥ずかしい人」と自覚しているということは、「当事者性」を持っているということでしょうか。
「死ぬときにどんな人生だったというのがいい人生か」という質問がありますが、最終的には「恥ずかしい人生だった」と素直に言えるような当事者性を持った人間でありたいと思いました。