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恥の構造

2023年2月22日 CATEGORY - 代表ブログ

 

皆さん、こんにちは。

以前にご紹介した「世界の日本人ジョーク集」の中で、そのジョークの基となっている日本人の特質に「恥の文化」が大いに関係しているとして、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの「菊と刀」とともに参考文献として挙げられた向坂寛氏の「恥の構造」が参考文献として挙げられていました。

菊と刀」については拙著「富士山メソッド」を書く上で必要があり読んでおりましたが、「恥の構造」についてはこの指摘で初めて知りましたので早速読んでみることにしました。

本書の冒頭では、著者が本書を書くきっかけについて以下のように語られています。

「大学紛争華やかなりし頃、著者が教授を務める大学のある決定に納得できない学生が大学及び各教授に対しその決定内容の撤回要求を突き付けた際、多くの同僚教授が『入院・休講措置をとって学生との接触を断つ』という対応をとったのに対し、著者は『徹底的に学生の論理が首尾一貫していないことを明らかにして大学の決定の正しさを主張する』という対応をとることとなり、他の教授との間における認識の差に大いなる『疑念』を感じた。」

具体的には、主張すべきことを主張しないことによって「入院・休講措置」などの不本意な行動をとることがこそが「恥」だとする著者の認識と、そもそも難癖レベルでしかない学生との「議論徹底」によって混乱状態になることで「もっと大きな守るべき秩序」を守れないことから生じる混乱こそが「恥」だとの多くの同僚教授たちの(すなわちこれが日本人の平均的な特質だととらえられると思いますが)認識という「恥」という感情に関する二つの認識の違いについての疑念、すなわちそもそも私たちが感じる「恥」とはいったい何なのかを明らかにするのが本書の目的です。

菊と刀」では日本と欧米の社会が「罪(自分の心の基準からの外れ)」と「恥(社会の目の基準からの外れ)」のいずれかに重きを置くものなのかという文化論だったのに対して、本書はそのうちの「恥」という感情そのものにフォーカスすることによって「恥」という感情の本質に迫るものです。

この疑念の解消に役立つと思われるのが、他者と自己との視点の食い違いから独特な「羞恥論」を展開したドイツの哲学者マックス・シューラーの考えです。

これを具体例を挙げて分かりやすく説明した心理学者井上忠司氏の文章を本書より引用します。

「病院で女性の患者が男性の医者の前で裸になるとき、さして恥を感じないのは、女性は患者としての普遍者としてふるまい、医者も医者としての普遍者としてふるまっているからである。ところが、その女性が患者としての普遍者としてふるまおうとしているのに、医者が医者としての普遍者としてでなく、一男性としてその患者を見るとき、その女性に羞恥が生じるのである。また、男女の関係において男性が男性一般でなく、相手に愛された個別的男性としてふるまおうとするとき、相手の女性は彼を男性一般として扱ったなら、その男性は羞恥を感じるわけである。つまり、人は個別者としてふるまうときと、普遍者としてふるまうときの二面があって、他者との関係でそれぞれ食い違いが起こるとき、羞恥が生じるのである。」

ここで、このマックス・シューラーの考えを著者の冒頭の実体験に当てはめてみます。

著者は学生たちを個別的な学生としてとらえ、また学生も著者を個別的な教授としてとらえている(と思っていた)ので、「徹底的に学生の論理が首尾一貫していないことを明らかにして大学の決定の正しさを主張する」という対応に対して著者に「恥」という感情が生じることは一切なかった。

一方で、多くの教授たちは、学生たちが自分たち教授陣を普遍的な教授としてとらえているのにもかかわらず、自分たちが「徹底的に学生の論理が首尾一貫していないことを明らかにして大学の決定の正しさを主張する」という対応をとることで、学生たちが「おっ、教授たちは俺たち学生のことを個別的な存在としてみているぞ」と認識され、そうなると自分たちの中で「恥」という感情が生じてしまうことになるため、「入院・休講措置をとって学生との接触を断つ」対応をとることでその「恥」の感情を避けようとした。

どうでしょうか、このシューラーの考え一つだけでもこのように当てはめてみると「確かに!」と思える合理的な分析ができることに驚かされました。

本書はこれに限らず様々な学問的考察を紹介しながらこの「恥」という感情にアプローチをしており、その一つ一つがこのように説得力を持っているので、著者の「疑念」に代表される「恥」の本質がどんどん露わになっていき、大きな爽快感を感じることができました。

 

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