投票権のないワシントンDCの住民
2024年11月8日 CATEGORY - 代表ブログ
(*「END TAXATION WITHOUT REPRESENTATION=代表者不在の課税を終わらせよう」のスローガンが書かれているワシントンDCのナンバープレート)
皆さん、こんにちは。
前回の「アメリカ大統領選の選挙人団とは何か」の記事の中で、「ワシントンDCは州ではないため連邦議会における投票権はないが、選挙人票として3票を持ちます。」という記述をさらっと引用しましたが、よくよく考えてみるとこれはとても重大なことで、そのことの真意をしっかり理解する必要があると思い至りました。
調べましたら、前回引用した「東京新聞WEB」にドンピシャの記事がありましたので、以下記事を要約引用(一部加筆修正)します。
「米首都ワシントン(ワシントン・コロンビア特別区)には、西部ワイオミング州などより多い約70万人が暮らし、連邦税も納めているのに、連邦議会議員がおらず投票権もない。選挙は『州』ごとに行うと規定され、首都は『特別区』だからだ。連邦議会に代表を送り込めず、予算案や各種法案、重要な政府人事や弾劾裁判などへの住民の発言権がないことから、官民は連携して51番目の州を目指す運動を展開しているが、民主党支持層が多いため共和党が反対しているためなかなか実現が難しい。『代表者不在の課税を終わらせよう』。首都ワシントンの車のナンバープレートには2000年から、異色ともいえる政治的なスローガンが書かれるようになった。住民の提案に特別区トップの市長らも同調し、公用車に同じプレートを付けている。日本では『1票の格差』の大きさが問題になっているが、米国の首都の住民は、1票すら持っていない。その不満をナンバープレートで訴えている。」
そもそもなぜこんなことになっているのでしょうか。
「首都の住民に投票権がないことは、憲法の規定に由来する。1787年に制定された憲法は、それまでの内乱の反省から、首都が特定の州の支配を受けないよう『特別区』として議会の直轄地にすると定めた。このため州と同じ自治権はなく(つまり、市長や市議会議員も存在しなかった)、大統領選への投票権もなく、州ごとに選ぶ連邦議会議員も不在となった。」
議会の直轄地であるということは、税金などを負担していながらも、自分たちの住む場所に関する発言権が全くなく、すべてのコントロールは他の50州の代表に委ねられているというあまりにも理不尽な立場にあることを意味します。
そのような形でスタートしたワシントンDCの歴史ですが、住民は長い時間をかけて少しずつですがその理不尽な立場を修正する努力を続けてきました。
「住民の増加や不満の高まりから、1960年代から権利獲得を目指す運動が拡大。64年から大統領選に投票できる(これが前回の記事で見た選挙人3人の存在)ようになり、74年からは市長と市議会議員も公選制となった。しかし依然として、連邦議会には、下院に議決権のない『準議員』1人を出しているだけで、通常の議員は送り出していない。憲法は国民の投票権を保障しているため、住民グループは憲法違反だとする訴えを起こしたが、連邦最高裁は2000年、首都は州ではないとして住民は投票権を持たないと判断した。2017年には『特別区』の範囲を狭めて居住区や商業区を51番目の州とする法案が提出され、20年と21年に下院で可決された。州と同じ自治権を認め、連邦議会の定数を増やして下院議員1人と上院議員2人を選べるようにする内容だ。しかし、ワシントンの住民は民主党の支持者が圧倒的に多い。このため共和党は強硬に反対しており、勢力が伯仲する上院では採決されず宙に浮いている。テキサス州など共和党支持層の多い22州も反対しており、法案が成立すれば訴訟を起こす方針だ。」
なんだか、このやり取りには既視感があるような気がしました。
日本における「選択的夫婦別姓制度」の問題の構図に酷似しているではないかと。
この問題は、現在結婚したら必ず夫婦どちらかの「姓」にそろえなければならず、多くの場合、女性が男性の姓に変更することで社会的な不利益を被ることがあるという現状を改善するために、改姓を「選択制」にする、すなわち、一緒にしたければすればいいし、したくないならばそのまま別姓でも構わないとするよう法律を改正しようという動きに対して、主に自民党の一部の保守派のかたくなな反対によって宙に浮いているものです。
ワシントンDCの住民と結婚後に姓を変えることで不都合を被る日本国民は、そっくりな境遇にあるように私は思います。
それは、「選択制」という「理不尽な状況下の誰かの不利益の解消」への改善方策であるにもかかわらず、その当事者以外の特定の意見を持つ者の力によって握りつぶされてしまう理不尽さという共通点においてです。