
政治家と英語
2025年10月5日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。
昨日(2025年10月4日)、自民党の総裁選挙にて、史上初の女性総裁として高市早苗氏が選出されました。
下馬評では小泉進次郎候補が決選投票をものにするのではないかとの声が大きかった中、第一回目でも首位、そして決選投票でも勝利をおさめ、新総裁に選ばれました。
彼女がこれからどれほどの実績を上げてくれるか期待するところですが、少なくともアメリカよりも先に女性の首長が日本に誕生したことは日本にとって大きな意味を持つ出来事だったと思います。
この総裁選では、高市候補、小泉候補、林候補、茂木候補そして小林候補の5名で戦われましたが、その最中、論破王で有名なひろゆき氏をMCとする公開討論会が行われました。(しかも、それは自民党の広報が企画したとのころでかなり思い切ったなと思いました。)
その中で、ひろゆき氏は唐突に「What kind of country do you want Japan to be? Could you explain in English in one minite?」という英語で質問をしたことと候補者5名のその質問に対する反応が大きな話題となりました。
ご覧のようにその結果としては、林候補と茂木候補が英語で返したのに対して、他の3候補は基本的に日本語で対応するという結果になりました。
この結果を受けてネット上では、英語での回答を拒否し日本語で答えた3候補に対して、「小泉氏はコロンビア大学大学院修了、小林氏はハーバード大学大学院修了、そして高市氏はアメリカの連邦議会にCongressional Fellowとして派遣され議員立法のための調査や分析を行ったという経歴をプロフィールにて公表するなど、英語ができることを長所として掲げているのに英語を使わなかったのはおかしい、本当は英語ができないのではないか?」というような批判が上がったりもしました。
私はこの3人の英語が少なくとも今回のひろゆき氏の質問に対して的確に回答できるくらいの英語力は十分に有していることを過去の動画などで確認しておりますのでこのような批判は当たらないと考えます。
それならばなぜ3名はそれを拒否したのか。
それは、小泉氏が環境大臣時代のいわゆる「環境問題はSexyに問題」が日本の政治家の英語使用のリスクを以上に高くしてしまったことが原因ではないかと思っています。
こちらがその当時のやり取りを記録した動画です。
ご覧のように、彼は政治家として英語ができるかどうかと言われれば、「できる」ということで間違いないと思います。
そして、例の「環境問題はSexyに」との発言部分を見ていただきますが(5:57~6:08)、これをしっかり見れば、彼の発言を「環境問題はSexyに問題」として彼の能力を貶めるように世の中が捉えるのは適切ではないと思います。
なぜなら、「環境問題はSexyに」という発言はそもそも彼自身の言葉ではなく、彼の隣にいるコスタリカの外交官で元国連気候変動枠組み条約事務局長であるクリスティアナ・フィゲレス氏の言葉、もっと言えば、環境問題について小泉氏がかつて話した人が「環境問題はすべて楽しくなければならない」と言っていたという内容を彼女に伝えた際に、彼女が「そして『セクシーにね』」と冗談混じりにコメントしたことを引用(「everything got to be fun and she added ” also sexy”」)して話しているだけだからです。
しかも、それを小泉氏とフィゲレス氏との間でジョークとして成立しているというのが正確です。
にもかかわらず、その後の報道やそれ以降のネットでは、明らかにこの「環境問題はSexyに」が小泉氏自身の発言で、しかもその発言が彼から唐突に出た「ズレた発言」だとして批判的に取り上げていました(少なくとも私にはそう捉えられました)。
とにもかくにも、当の小泉候補には強烈に、他のお二人にも少なからずこの「環境問題はSexyに問題」が大きなトラウマとなって今回のひろゆき氏の挑発に乗らなかった可能性は高いと私は見ています。
そして、そのような誘導的な報道やネット上の批判が、今回の総裁選中に再燃し、冒頭の「小泉進次郎候補が決選投票をものにするのではないかと」との下馬評が覆される要因の一つになった可能性もゼロではないと思います。
私の「政治家と英語」観としては、少なくとも総理大臣とほぼイコールである自民党総裁に立候補する人間にとって「英語ができる」ということは「当たり前」の要素であるべきだと思っています。
ですから、私はいまだによくある「総理大臣は英語ができなくても通訳を使えばいい」という意見に決して与しません。
そもそもそれぐらいのことは当然である候補者の中から選ばれる自民党総裁選でなければこの国の将来は非常に危ういと感じざるを得ません。
その意味では、この「英語ができる」かどうかのような当たり前の視点が一国の総理を決める選挙に少しでも影響するようであれば、このようなある意味悪意のある批判というものをコントロールする必要を強く感じました。









