「教える」ということ
2020年9月2日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
ライフネット生命保険株式会社の創業者で現在立命館アジア太平洋大学の学長である出口治明氏の「『教える』ということ」を読みました。
著者については以前にもこのブログで「人生を面白くする本物の教養について」という記事を書きましたが、そちらでも、本書でも主張において一貫して大切にされていることは「自分で考えて答えを出すこと」でした。
本書は、冒頭から「教える」ということ、つまりは教育を与える側の立ち位置について以下のように非常に厳しい見方をしています。
「『古典を読んで分からなければ、自分がアホやと思いなさい。一方、現代の本を読んで分からなければ、書いた人間がアホやと思いなさい。そんなものは読むだけ時間の無駄です。』これは、大学時代に恩師から言われた言葉です。つまり、古典が分からないとしたら、読み手の力不足。同時代の文章で書かれた本が理解できないとしたら、書き手の力不足。なぜなら、現代に書かれた本は、著者と読者が同じ時代を生きているから。時代背景や社会状況、言葉の意味を同じくする同時代の人が書いたものは理解できるのが当然だからです。『教える』とはどんな人に対しても真意を伝えることです。教える立場に立つなら、相手のレベルに応じて、相手に伝わるように、相手が理解できるように、分かりやすく伝えることが絶対条件なのです。」
これは、私自身「教える」ことを職業にしているわけで、例えば自らが主宰する「中学三年分の英文法を血肉にする合宿」においては、その成功率として5泊コースで95%、2泊コースで75%という結果が出ているのですが、この数字が100%でないのに、ある程度満足していた自分に対して反省を促す言葉となりました。
それを、100%にするためには、教えるこちら側の「自分で考えて答えを出すこと」を常に続けるしかありません。
このように、この読書は痛烈な反省から入ったのですが、もう一つ印象的だったポイントがあります。
それは、「オンライン教育」の是非です。
コロナ禍において、学校、塾等、教育の現場において「オンライン」が一気に一般化しましたが、私としてはどうしてもこれをメインストリームとして押し上げることが果たして正解なのかという疑問をずっと抱えていました。
その疑問について「自分で考えて答えを出すこと」に取り組んできましたがなかなか、その是非についての決定的な結論が出ず苦労をしていたところ、本書に以下のような著者と東大の岡ノ谷教授との対談を見つけました。
◆岡ノ谷:東大では8年前からオンラインコースをいくつも作っています。 当時、「10年以内に大学の教員の多くが駆逐される」として、多くの大学関係者が戦々恐々としていました。
◆著者:オンラインにすることで伝達効率は上がったのですか?
◆岡ノ谷:いいえ。オンライン教育の場合、課程を終了する率がかなり低いことが明らかになっています。そもそも私は、インターネット教材だけではそれほど学習は進まないという仮説を持っていました。というのも、自分でもオンラインの講義を受けたみたのですが、途中で挫折してしまったのです。
◆著者:なぜ挫折を?
◆岡ノ谷:その理由を考えてみると、おそらく、教育に必要なものは、学ぶべき情報内容だけではないからです。「その先生から学びたい」というモチベーションも必要なのではないでしょうか。
◆著者:オンライン学習が続かないのは、岡ノ谷先生のご指摘にあった先生への畏怖の問題もありますが、生徒同士で競い合ったり、励ましあったり、議論しあったりする環境がないことも原因の一つではないでしょうか。「21世紀最初のエリート大学」として設立されたミネルバ大学は全ての授業をオンラインで行っています。そのため、大学に校舎はありません。ですが、世界の7都市を移動しながら学ぶ全寮制を採用しています。要するにインプットはオンラインでも、仲間と互いにけん制しあい、議論する環境を人間関係の中に埋め込むのです。
今回のコロナ禍で「オンライン教育」がかなり大規模に行われました。
それによって明らかになってしまったことがあります。
それは、非常に教え方に優れた先生のオンラインの授業の方が、そうではない先生の生の授業よりもずっとよいということです。
ですが、それはすべてを「オンライン」に置き換えてもいいということとは違うと思います。
上記の議論のように、知識のインプットについては「オンライン」で効率的、効果的に行う方が圧倒的にいいかもしれないが、その知識を前提として、仲間と互いに高め合いながら議論する「環境」こそが教育の場である「学校」の存在意義なのではないか。
そして、それによってのみ「自分で考えて答えを出すこと」を身に付けさせられるのではないか、そう確信させられました。
手前みそになりますが、「効率的・効果的なインプット」と「外国人との一緒に生活する環境」を一緒にしたランゲッジ・ヴィレッジのサービスについて、改めて自ら再評価したいと思います。