代表ブログ

数学の世界

2025年2月4日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

私は筋金入りの文系人間で「数学」という科目に一貫して苦手意識をいただいてきました。

しかしながら、そうは言っても人間社会におけるその重要性については理解しているつもりですし、また苦手意識を持つからこその「好奇心」というか「憧れ」のような感情が時折湧き上がってくるのを感じることがあります。

今まで、例えば「虚数はなぜ人を惑わせるのか」「文系の私にも分かりやすい高校の数学」「教養としての数学」など手に取った書籍をいくつか紹介してきました。

今回はそんな中でももっとも古く(1973年発刊)そして重厚な装丁の「数学の世界 それは現代人に何を意味するか」という本を読みました。(例によっていつ購入したか分からないほどの積読状態からの救出です。)

形式としては、数学音痴の私でもお名前だけは存じ上げている京都大学の大数学者 故森毅氏と数学者ではなく経済学者の東京大学名誉教授の竹内啓氏の17時間にも及んだ対談をまとめたものです。

本書を読むことで、いわゆる学校の教科としての「数学」を学ぶだけでは得られない気づきをたくさん得ることができました。

以下に、特に印象に残った部分を要約引用します。

「文法が先にあって言葉があるわけではない。言葉が先にあっておのずから文法ができてくる。その意味では数学的論理というのも、算術やらなんやら広い意味の数学があり、あるいはそのもっと前に、世の中を認識するいろいろのものの考え方とか、広い意味での学問とかがあって、それが後から整理され形式化されたものだと言えると思います。逆に言うと、ものの考え方とか論理というのが、相当言葉の文法に制約されているところがあって、アリストテレス流の形式論理学はヨーロッパ言語の文法に従っているわけです。そういう意味では、数学も近代ヨーロッパのものの考え方、あるいはその前提になっているインドヨーロッパ的な言語の構造に規制されているかもしれないので、例えば『源氏物語』の世界、ああいう日本語の世界をそのまま延長したところで数学が出来上がったら、きっとかなり違ったものになるだろう、という予想もできないことはない。」

つまり、ヨーロッパでは「A=A」の関係性は不変だという考え方が出発点だから、「水」は水で、その温度が高い場合には「熱い水」ということで「水」というのはあくまでも実体であり、「温かい」というのはその実体の「属性」に過ぎないと考えるということです。

そのような考えの下、「現代数学」は今のようなの形になっているということです。

一方で、実体としての「水」と実体としての「お湯」が存在する日本語に代表されるように、東洋では「諸行無常」「盛者必衰」という考え方のベースがあり、もしこのようなベースの下、現代数学が成立したとしたら、かなり違った形になっていただろうという推察です。

本書では、実際の「現代数学」の範囲の中でも以下のような面白い彼我の違いを明らかにしてくれています。

分数の2/3は、英語では「two over three」と言い、その意味するところは「二を三つに割る、もしくは2:3」、日本語では「三分の二」と言い、つまり「三つに割ったうちの二つ分」ということになるわけで、英語では「比」を、そして日本語では「値」を意味するという実質的な「差」が生まれています。

「数学は常に正しい」という私たちの一般的な認識は必ずしも正解ではないということを、実質的な観点から示していただいたという意味で非常に興味深いものでした。

 

◆この記事をチェックした方はこれらの記事もチェックしています◆