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日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

2024年12月1日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

現在、フジテレビ系列で「全領域異常解決室」というドラマが放送されています。

これは、「神隠しやあやかしやキツネ憑きの仕業といわれ超常現象として世間を騒がす不可解な事件を、大和朝廷時代から存続している世界最古の調査機関でもあるという『全領域異常解決室』が内閣官房から直接要請を受け解決に導く活躍を描く」ドラマです。

私は以前にも「神棚とご先祖様」や「王仁三郎の言霊論理力」といった記事を書いていて、このような人間の力を超えたものの世界というものについては、興味をもって知りたいという気持ちが強いほうだと思います。

その意味で、このドラマも毎回欠かさず見ているのですが、そんなアンテナが立ったこともあり、少し古い本ですが「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という本が目に入ったため読んでみました。

本書では、「キツネにだまされる」という現象を文字通りのこと(キツネやそれに類する動物が意図して人間に作用すること)としては捉えていません。

では、どのようなこととしてとらえているかというと、「知性」よりも「自然とのコミュニケーション」の割合が圧倒的に高い状況で生活をするというスタイルの中で身体的にものを捉える力(キツネにだまされる能力)を身に着けていた結果だと考えています。

私たち現代人は、自分の生命を独立したものだと捉えて生活をしています。

生活は科学(論理)を前提として個人的に行われるもので、自分の死が訪れればそれですべては終わりであると考えます。

しかし、かつての日本人は、生命とは全体との結びつきの中でとらえられていて、森と木の関係のように自分と共同体(村)の関係が重要で、神仏(自然を含めた)を大切にするお祭りなどの習俗を通じて、知性ではなく直観、合理的な説明よりも自分と村全体が納得することで、自分自身が生かされるという考えを持っていた。

その考えを基に生きていく中で、「キツネにだまされる」経験というものを当たり前にしてきたというわけです。

それが、1965年を境に、日本人はその身体的にものを捉える力(キツネにだまされる能力)を一気に失ったというのが著者の主張で、この1965年の時点が日本にとってどのような変化があったのかを5つの観点から考察されているので、以下にその5つを要約してみます。

1.経済的な視点:高度経済成長によって、自然の価値も含めすべてを経済的価値があるかどうかで判断するようになった。

2.科学的な視点:戦前戦中の「大和魂」などといった非科学的な思考の反省によって、科学的真理を唯一の心理だと考える合理主義の精神が広がっていった。

3.情報コミュニケーションの視点:電話・テレビの普及によって村人同士の意思の疎通による脚色・強調(主観)などが大幅に排除されることで「客観的な事実」の伝達に終始し、人々から情報を「読み取る力」が奪われていった。

4.教育的な視点:大学進学率の大幅な向上によって教育の基盤が学校教育に一元化されたことから、家族・地域・先輩などから教わる「村の教育」が不要視されていった。

5.死生観の変化:かつては、人間が生きていくことは自己の霊が穢れていく過程としてとらえられていて、最終的に死を迎え共同体を守る「ご先祖(神仏)」になることで、自然に還り救済されると考えていたものが、共同体の衰退によって死が個人のものになってしまった。

最後に、これらのことに一定の説得力を持たせてくれる著者の一節を引用して終わります。

「明治時代に入ると日本は欧米の近代技術を導入するために、多くの外国人技師を招いた。その中には土木系技師として山間地に滞在する者もいた。当時の村人はキツネやタヌキなどにだまされながら暮らしていたのに、彼らは決してそれらにだまされることはなかった。今なら、動物にだまされた方が不思議に思われるが、当時の村人たちにとっては騙されないほうが不思議だったのだ。だから『外国人は騙されなかった』ということが『事件=不思議な話』としてその後も語り継がれた。同じ場所にいても同じ現象が起こらなかったのである。おそらくその理由は、その人を包み込んでいる世界が違うからなのだろう。」

 

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