
日本語の大疑問
2025年5月19日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
本書「日本語の大疑問」は、「国立国語研究所」という国家機関に寄せられた日本語に関する疑問・質問に対してこの機関の関係者が答えたものです。
その質問とは例えば、
「なんでも略して言うと、正しい日本語が失われてしまうのではないでしょうか?」
「海外にもキラキラネームはあるのですか?」
「『可能性』は『高い』のか『大きい』のかそれとも『強い』のでしょうか?」
といったものです。
そして、「国立国語研究所」というイカツい名前もあって、日本語が正しく使用されているかをチェックする機関としてこれらの質問内容に対して厳しい回答を載せているのかと思いきや、実際に読んでみると、かなり柔軟性のある回答ばかりであったことに驚かされました。
それもそのはず、本書にはこの「国立国語研究所」に関する次のような説明があったのでした。
「多くの質問には『AとBのどちらが正しいのか』『最近の若い人はAのような間違った言葉遣いをしている。直すように指導してほしい』などと言葉の裁定を求めるものが散見するのですが、当機関はそのような『正しい』言葉の使い方を決めるところではありません。そうではなく、当機関の目的は『国民の言語生活の全般にわたり科学的総合的な調査研究を行うこと』によって実際の言語状況を調査し、そのデータを解析して日本人の言語生活全般を豊かにすることと言えます。(一部加筆修正)」
つまり、「言語の豊さ」と「言語の正しさ」は全くイコールではない。正しくなくても、それが国語の豊かさにつながっているデータにを集めることで、国民生活に資すること、それが当機関の目的だと言っているのだと思いました。
だから、一つ一つの質問の回答が実に柔軟性のあるものばかりだったのかと納得しました。
その柔軟性がいかほどのものか実際にご理解いただくために、「なんでも略して言うと、正しい日本語が失われてしまうのではないでしょうか」という質問に対する回答の一部として書かれた「略語はなぜ生まれるのか?」の一節を以下に引用します。
「略語は元の語形の一部、場合によっては相当な部分を失っていますが、意味は元のままであるのが普通です。同じ内容をより短い語形で言い表すことができるので、てきぱきと効率的に情報伝達を行うにはまことに好都合です。」
この回答文言に触れた時、私は自らが主宰する「英文法講座」における演習(英作文)の際に次のように解説をしていることを思い出しました。
「同じことを言うのであれば、『語』『句』『節』のうち、できるだけ小さな単位で済ませるべきです。」
例えば、「the broken heart」と「the heart which was broken by someone」では、伝える内容が若干異なるので、それぞれのパターンにおける情報量は必要不可欠だと考える一方で、「beautiful flower」と「flower which is beautiful」だったら、beautiful という「語」で済ませるほうがwhich is beautifulという「節」を使用するよりも、伝わる内容が全く同じなのに少ない情報量で済んでいるので良いとする価値観です。
すなわち、同じ内容をより少ない情報で伝えるということが「言語」というシステムの根本的原理ではないか、そして、「同じ内容をより少ない情報で伝える」ことができることが言語の豊かさということに直結するのではないかという視点です。
本書における「略語」に関する解説に触れ、自身の講座の中で受講者にお伝えしている主張に対する援護射撃と受けとめた私は、「国立国語研究所」に、心から「名前のイカつさの割にいい仕事してますね~」とお伝えしたくなりました。