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旧約聖書を知っていますか

2024年10月16日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

以前に阿刀田高の「コーランを知っていますか」をご紹介しましたが、一般的に理解が難しい自身が帰依する宗教以外の宗教に関して、「聖典」を易しく読み解くことでその宗教を非常に効率的かつ効果的に概観することができるようになることを発見してしまいました。

そのため、「コーラン」に続いて「旧約聖書」を阿刀田先生が取り上げた「旧約聖書を知っていますか」を読んでみました。

その結果、私がそこから読み取った「ユダヤ(イスラエル)教」と「旧約聖書」のイメージを以下にまとめてみたいと思います。

これらは、イスラエルのイスラエルによるイスラエルのための宗教とその聖典であり、その両者の要諦はイスラエルの神に対する絶対的な信仰心であるというものです。

ここで「絶対的」とは、仮にその神の指示が人間(イスラエル人かどうか無関係)にとってどれほど非道徳的であったとしても、思い悩むことなくその指示に従うことができるという意味です。

それがよく分かるエピソードが、「旧約聖書」の中にいくつも記されているのです。

以下に、そのことがよく分かる実際の記述を本書より引用します。

まずは一つ目。ユダヤ教におけるもっとも偉大とされる預言者であるアブラハムに対する神の言葉に関して。

「イサクを連れ、モリヤの地へ行きなさい。そこで私の命じる山に登り、イサクをいけにえに捧げなさい」

こう指示されたアブラハムは「神のみ心はどこにあるのだろうか」と深く思い悩みながらも、イサクを連れて山へ入り、山の頂上に到着し、祭壇を作って、イサクを縛り、刃物を取った。その時、天からの声が呼んだ。

「アブラハム、手を放せ。あなたの心は分かった」

アブラハムは膝から崩れた。崩れながらも神のみ心を知ったに違いない。

「試されたのだ」と。

いや~。

もし、神の最後の声がなければアブラハムは我が子を殺していたことになります。そのような心の動きを、イスラエルの神は「是」としていることになるわけで、信仰心が何よりも優先されるというこの思考には正直いって私はついていけません。

次に二つ目。モーセがエジプト王を説得させるためにいくつかの奇跡を用意したが、その最後の奇跡に関して。

モーゼがエジプトに突きつけた十番目の災害は、エジプト人の全ての家の初子を神が殺すというすさまじいものだった。どの家からも夜空をついて泣き叫ぶ声が聞こえた。

「どうやらモーセの後ろには神様がついているらしい」

さすがのエジプト王も恐れおののき、

「早く出ていけ。家畜でも財産でも好きなように持っていけ」

と白旗を挙げた。

これなどは、イスラエルの神様のイスラエルの民への異常なまでの依怙贔屓ぶりを表すものだなと思います。これをその聖典の中に堂々と「奇跡」として載せていること自体が異様ですらあると思ってしまいました。

このことから、ユダヤ教は決して世界宗教にはなれない(なるつもりのない)宗教なのだと納得できます。

そして、三つ目。これで最後にしますが、エジプトを出て、いよいよ最終目的地カナンはすぐそこだといったときに、その場にすでに住み着いている民族の反撃を恐れひるんでしまったイスラエル人に対する神の言葉に関して。

「あなたたちは、まだ私を疑うのか。エジプトにあった時以来の数々の恵みを、なんと心得ている!カナンの地に入りその住民をすべて追い払い、すべての偶像を粉砕し、異教の祭壇を壊しなさい。そしてあなたたちはそこに住みなさい。私があなたたちにその土地を与えよう」

これを目にしたとき、現代のおけるイスラエル政府の言動を私たちが決して理解できない理由がここにあると確信しました。

上記の神の声とされる言葉の内容が、彼らの宗教の最も大切とすべき「聖典」にどうどうと書かれており、それを無条件に信仰すべきことを生まれたときから当たり前のこととする教育が何千年と続けられているならば、彼らと私たちの間にズレが生じるのは仕方ない、いやないほうがおかしいといえるでしょう。

今回本書を読んでも、残念ながら彼らに共感することは全くできませんでしたが彼らの行動の裏にある思考については理解することはできたような気がします。

それはつまり、彼らの行動原理は究極の「民族至上主義」だと。

 

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