
生きる言葉
2026年4月2日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。
読売新聞の「読売歌壇」の選者としても有名な歌人 俵万智さんの「生きる言葉」という新書を読みました。
読み始めるきっかけは、本書の広告に「言葉の力が生きる力ともいえる時代に、日本語の足腰をどう鍛えるかを歌人ならではの視点で実体験を踏まえて考察する」という文句に惹かれたことです。
この文句を意識しながら本書を読み始めるとまず、冒頭からぐっと引き付けられました。
なぜなら、「言葉の力が生きる力」という意味を強烈な実感とともに理解させられたからです。
著者は40歳の時に子を授かり、歌人という比較的自由な環境もあって、「まっさらな状態で生まれてきた人間が日本語ペラペラになるまで、ずっとそばで見ていられる」という幸運に恵まれたと言います。
そのような生活の中で「言葉の力=生きる力」という発見につながる体験をいくつも経験され、その瞬間の記憶を以下のように綴られていました。
「息子が初めて口にした言葉は『パン』だった。朝食はいつもパン(粥)というのが定番だったが、その際にいつも何気なく『パンだよ』『パン食べよう』『パン美味しい?』と言って話しかけていた。それがあるとき頭の中で結びついたらしい。毎朝聞いている『パン』という音は、毎朝食べているこのモニャっとした美味しいもののことなのだと。目を輝かせて『パン!パン!』と叫んでいた息子。それからは堰を切ったように単語を覚えていった。」
「文字というものを理解した日のことも忘れ難い。『のりもの』という絵本を繰り返し読んでやっていたのだが、表紙を指して毎回『の』『り』『も』『の』と声に出していた。それがあるとき『の!』と、これまたピカーンと頭の中で何かが結びついたようだった。『の』という音が、このグネーと曲がった線を示していることを直感したのだ。なぜ『の』だったのかは、分からない。もしかしたら『のりもの』に二つの『の』があったからだろうか。そして『の』は世の中にあふれているので、看板や新聞や絵本で『の』を探しては『の!』と叫ぶ遊びに熱中した。」
これらは具体的な物と言葉の結びつきの発見の瞬間を見事にとらえた描写です。
私も言語を仕事にしているのにも関わらず、そんな強烈な瞬間をとらえようという発想が全くなかったことに非常に情けなく思い、またなんと惜しいことをしてしまったのだろうと思いました(子育てに何も協力しなかったと女房からなんどイヤミを言われても軽く聞き流すばかりだったのに、このエピソードを聞いたとたん、強く反省する気持ちが湧いてきました)。
「あの赤い花も、この白い花も、『つつじ』と呼ぶこと。絵本で見る平面の生き物と、散歩のときに会う毛の生えた生き物を、どちらも『いぬ』と呼ぶこと。意外と難しかったのは、日常に紛れ込んでいる比喩的な表現だ。『早くして!時間が無くなる』と言うと『え、何がなくなるの?』と顔を上げる。『わっ、賞味期限が切れちゃった』とお菓子の袋を見ていると『え、何が切れたの?』と近寄ってくる。これまた見せてやることのできない抽象的なことだ。モノの名前を覚えるのとは違うワンステップがそこにはあった。そういった小さなステップを一緒に上がるとき、自分の中にもう一度『子どもの目』が宿る。その目で世界を見ることは、とても新鮮だ。」
まさにこれは、世の中の見方として「具体的」な見方と「抽象的」な見方の二つの見方が存在していることの発見の瞬間をとらえた経験の描写でした。
そして、この本当に生々しい発見の瞬間を著者に見せつけられた時、私がこのブログで頻繁に取り上げる「日本人にとって英語(外国語)の幼児教育」に潜む問題の核心について文字通り手に取るように理解できる材料になるはずだと確信しました。
母語の習得というのは、非常に大量の著者が挙げられたような言語体験の中で、段階を経て少しずつなされていくものです。
一方で、母語の習得時ほど大量の言語体験が不可能な外国語の習得における運用システム(文法)の理解は、その高度な段階において獲得する「抽象的」な概念を活用することが不可欠です。
であるならば、外国語の習得、特に日本のような国内にバイリンガル環境が全くないような前提における外国語の習得については、母語における「抽象的」概念の獲得が完了した12歳以上、すなわち中学入学のタイミングこそが、その学習を効率的・効果的に行うためには最良のタイミングであるということが良くわかるはずです。
本書を読み始めるモチベーションとは全く関係ないところで、思いがけない「大発見」をすることができたことに大いに感謝しているところです。









