社会が知的に謙虚になるためには
2020年9月30日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
近代以降、このコロナ禍ほど私たち人類が「論理」と「感情」の間でそのバランス感覚を問われたことはなかったと思います。
実際に、対策の政策決定に関する「専門家」の科学的知見と「政治家」の総合的判断との間で私たち国民は翻弄されてきました。
例えば、政府は「専門家会議」という組織を立ち上げて、専門家の「科学的知見」を参考にした上で、政治としての「総合的判断」を下す仕組みを作りましたが、いつしか専門家の科学的知見による発表が独り歩きすることで、大衆の恐怖の醸成につながり、経済的に立ち行かない状況を作り出してしまいました。
つまり、大衆は「専門家」が対策を提案するのみならず決定までしているのではないかと誤解をしてしまったわけです。
結局、その誤解を解消するために、政府は「専門家会議」を廃止して、新たに「新型コロナウィルス感染症対策分科会」を立ち上げるに至りました。(そちらについてはこの記事をご参照ください。)
そもそも、科学的知見は「論理性」を突き詰めてしまう性質を持っていることから、その「論理性」を「経験論」とも言い換えられる総合的判断によってうまくバランスさせるための仕組みを政府は作ったはずでした。
しかしながら、結局、この二つは対立してしまい、このバランスをとることができませんでした。
今回、科学的知見が「論理性」を突き詰めてしまう性質をもっている理由について非常に分かりやすく書かれた「臨床の知とは何か」という本を読みましたので、以下にその部分を引用します。
「我々は何かに有効に働きかけようとするときには、何らかの仕方でその相手を対象化し、周囲から切り離して部分化する必要がある。そうしなければ、複雑に関連した事象の全体を引き受けなければならず、行動しようにも手も足も出なくなってしまうからだ。そのような全体に対して働きかけのための糸口を作るのが『科学的手法』である。」
すなわち、「科学(的手法)」とはそもそも限定的で仕方がなく援用した不完全なものであるという認識をしたうえで活用すべき部分を活用するという姿勢が必要な存在だということです。
にもかかわらず、現代人の多くは「科学」に絶対的な信頼をおいてしまいがちですし、科学者たる専門家もそのように信じることで自分の専門分野におけるモチベーションを維持している場合が多いように思います。
時に、「スピリチュアル」や「オカルト」的なものに対して絶対的な批判を加える大学教授がお笑いのネタになることがありますが、これもこの傾向の表れではないかと思われます。
私たちがこの科学的手法の限界を理解し、総合的判断によってうまくバランスさせることの重要性を訴える印象的な記述がありましたのでそちらも引用します。
「地球は、宇宙全体の複雑な系の一部をなしていることから、(部分的な切り取りによる限定的な手法である)科学では、完全に将来を予測したり正確なモデルを作ることはできない。」
この言葉を聞けば、私たちは、当然にして近代科学を絶対視しない「謙虚」な姿勢を持たなければならないと思うことができます。
もちろん、前述したように科学者が自分の専門分野について科学的手法を絶対視しがちなことはモチベーションを維持するためにはある程度必要なことだというのは理解できます。
だからこそ、それを社会の制度として「総合的判断」によるバランスをとることを政治に求めることが重要なのだと思います。