
空海の風景(上・下)
2024年6月25日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
「ゼロポイントフィールド」シリーズから「科学するブッダ」という流れで、現代の最先端科学である「現代量子論」と「仏教」特に仏教の原始的段階、すなわちブッダの「悟り」の内容(いわゆる小乗仏教)の共通点についてみてきたわけですが、ここへ来て日本仏教(いわゆる大乗仏教)の考え方にも興味が湧き、日本仏教のスーパースターである真言宗の開祖 空海の思想に触れてみたくなりました。
そこで空海を全体的に理解できるいい本はないかと探していたところ、彼の思想と生涯を追った「空海の風景」があの司馬遼太郎先生の作であるということを知り、大学以来久しぶりに彼の大作を読んでみようということになりました。
本書を読み始めてまず感じたことは、読み進めるのに非常に時間がかかるということです。
もちろん、これは決して「つまらない」ということではありません。
そうではなくて、空海周辺の知識のみならず、仏教関連の知識が非常にたくさん出てくるのですが、その都度それに関する解説がある場合にはそれを読み込み、それがない場合にはググる必要が出てくるからです。
例えば、「出家」・「得度」・「受戒」というのは、「お坊さんになる」という同じ意味を表す言葉だと私は思っていました。
ところが、本書には天台宗の開祖最澄は「12歳前後で早くも出家し、15歳で得度を志願し、20歳で受戒した。」というような表現がさらりと出てくるのです。
ちなみに、この三つの違いについては以下のように解説されていました。
「この時代、官僧になることは非常に困難だった。最澄の経歴におけるその出家は、文字通り在家から離れるだけの行為を指し、俗名俗体のまま寺で暮らす。出家したこの少年は近江国分寺の僧の下で僧になるための学習をした。次いで得度をするのだが、まず近江の国司に願書を出さねばならない。国分寺の僧の定員はわずか20名だった。一人死ねば、補充として一人得度させる。最澄の場合、最寂という僧が死んだため、資格ができた。これによって彼を得度させて良いかという願いを国司の庁に出し、庁はそれを審査し、許可する。驚くべきことに、彼が得度の試験に合格したことに伴う『度牒』という合格証書が残っている。ここで初めて最澄を名乗る。さらに、彼は官僧の任用試験である受戒を延暦4年4月6日に受けた。これによって彼は生涯官僧としての栄誉と俸禄を国家から保証されるということになるのだが、しかし最澄はこれを断った。彼は空海の青年期と同様、山林の修行者となる。」
つまりは、現代のお医者さんの例で例えると、「出家」は大学の医学部に入るようなもの、「得度」は医師国家試験に合格するようなもの、そして「受戒」は晴れて病院に医師として採用されることのようなものでしょうか。
また、本書を読んで驚いたのは、日本仏教のスーパースターとして現代でも多くの人々の尊敬を集めている空海が、それこそ生まれつき非の打ちどころのない「優等生」であったのかと思いきや、(とびぬけて優秀でありながらも)非常に癖の強い非常に人間ぽさを伴った人間に描かれていたことです。
こちらについても引用してみましょう。
「空海はあるいは妙な男であったかもしれない。酷な想像をすれば、その前年まで彼は僧になるかどうかさえ、心に決していなかったのではないかと思える。彼の若いころの年譜に7ないし9年の空白があるのだが、彼がその時に何をしていたのかを想像した。奈良の諸大寺の経蔵にこもったり、あるいは四国や近畿の山林を跋渉しつつも、一面、肉欲についてはおびただしく難渋したに違いない。彼が常人よりもさらに巨大な肉欲の持ち主として生まれついているらしいということは、偉大な思想家にしばしばそれがみられるということで、かすかに想像できる。大きな欲望を持ってしまっている場合、これを自ら禁じ、抑圧するために巨大な力を必要とする。その偏執的な禁欲の脂汗の中から、物事の本質以外には見る目を持たぬという内面が出来上がることが多いが、禁欲は山林の修行者である彼自身も大いに志したであろう。彼はついには性欲を逆に絶対肯定し、それを変質昇華させる方法として大日経の世界というものをも、からだ中の粘膜が戦慄するような実感とともに感知したに違いない。彼が自ら感得した密教世界というのは、光線の当てられ具合によってはそのまま性欲を思想化した世界でもあった。空海という思想的存在に、千数百年の後世から振り返ってもなおその匂いにおいて生々しさを感じることができるのは、おそらくそのせいであるに違いない。」
う~ん、これは司馬遼太郎先生一流の想像に基づいた「小説」だからこその描き方なのでしょうが、おせっかいながらあの「弘法大師」に対する想像にしては、やりすぎ感が強すぎるほどの生々しさです。(笑)
しかし、これもまた司馬先生の常人離れした膨大な文献研究に基づくからこその「生々しさ」なのだと考えなおし、途中からは他の司馬遼太郎作品と同じように、純粋に物語として楽しむことができるようになりました。