
翻訳と原書との近さと遠さ
2025年10月5日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。
前回の「年齢を重ねてからの外国語学習」に引き続き、村上春樹氏のエッセイ「やがて哀しき外国語」よりテーマをいただいて書きたいと思います。
私は以前に日本文学がノーベル文学賞において適正な評価を受けていないのではないかということを「ノーベル翻訳賞」という記事の中で以下のように書きました。
「評価の対象となるヨーロッパ言語への原作言語からの転換、しかも言語の由来も文化背景全く異なる日本語からの転換を考えると、もはやこの賞はこの記事に書かれている通り、ノーベル文学賞が『ノーベル翻訳者賞』と形容されるべきという考えにも一理あるように思います。(中略)その意味で言えば、毎年のように候補に上り、あのなんでも賭けの対象にするイギリスのブックメーカーのオッズでいつも上位に上る実績だけで、ご本人はもちろん、ハルキストの皆さんも十分に納得してもいいのではと私は思います。」
そのハルキがこの「翻訳」に関して、面白い「実験」を本書の中でしていました。
彼がプリンストン大学で日本文学の授業を受け持った時に、その授業の題材として吉行淳之介の「樹々は緑か」という作品を取り上げようとした際、その本の原書が大学の図書館では貸し出し中だったので、学生の一人がその「英語訳版」を持っているということでそれを借り、彼自身がそれを日本語に翻訳して使用したということです。
ちなみにその英文を日本語に再翻訳する際、彼は次のようなことを心掛けたと言います。
「これはもともとのオリジナルをほとんど覚えていない頭で、なるべく原文(英文)に忠実に、吉行さんの文体のことは一切念頭に置かずに訳したものです。真剣に翻訳する時は文章としてもう少し『開く』のだけど、ここではオリジナルとの対比を明確にするために、かなりストレートにニュートラルに訳しました。」
ここで、その内容を全て書いて比較するのは控えて、いくつか印象的だった部分を上げて比較してみたいと思います。
(その1)
原文1「毎日同じ時刻に、彼は仕事に向かった」
翻訳1「毎日、この時刻が彼の出勤時間だ」
(その2)
原文1「靄(もや)の底にかすんでいる得体のしれぬ場所へ降りていく、という刺戟的な気分である。」
翻訳1「この底も知れぬ靄の、仄暗い深みに向かって降りていくのだという、いささか刺激的な思いだった。」
(その3)
原文2「橋の上でそのまま踵を返して部屋へ戻り」
翻訳2「この橋からそのまま逆戻りして部屋に帰り」
両者を比べての著者自身の感想は以下のようなものになります。
「書いてあることは同じだけれど、こうして再翻訳してみると結構雰囲気が違っていることがお分かりになると思う。まず原文では過去形と現在形が混合しているが、英文ではそれができないので、全部過去形になっている。それからこれまたどうしようもないことなのだけど、漢字の醸し出す字面の『気分』が出ていない。また、文体の微妙なクセによって生じる不可思議なコリコリさも消えている。これは僕の個人的感想だけれど、英文翻訳で吉行淳之介の短編を読むのは面白かった。変なたとえかもしれないが、クラッシック音楽の古楽器演奏にも似た、『洗いなおし』風の面白みがある。そんなことをいちいち面白がっているのはあるいは僕くらいのものかもしれないけれど。」
著者は、「こうして再翻訳してみると結構雰囲気が違っている」と言っていますが、私としてはこの違いが吉行淳之介のこの作品を「別のもの」にしてしまうほど「遠い」ものではないと率直に思いました。
いや、著者自身が「英文翻訳で吉行淳之介の短編を読むのは面白かった」と言っているように、決して「近い」とは言えないとしても、むしろ「翻訳」としての面白み、新しい価値がそこに乗ってくる可能性すら感じられました。
もしかしたら、「ノーベル翻訳賞」とは「揶揄」したものではなく、本当の意味での翻訳者の力量が評価を左右することを含めていることを正直に「評価」したものなのかもしれないと思いました。









