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言葉の教育を問いなおす

2020年7月22日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

以前に、立教大学の鳥飼玖美子教授の「英語教育の危機」という著書から、「(国語)授業の神様」と呼ばれた大村はまについて取り上げ、はまに関する書籍も複数回に分けてご紹介しました。

今回は、そのうちの一冊である「評伝 大村はま」の著者であり、彼女から実際に教えを受けた苅谷夏子氏とその夫で教育社会学者である苅谷剛彦オックスフォード大学教授、そして鳥飼教授の三人による「言葉の教育を問いなおす」という一冊をご紹介します。

まず、本書の内容もさることながら、その書籍としての「方式」に着目したいと思いました。

というのも、本書には、三人の専門家による「対書」という形をとっている特徴があります。

「対談」は二人で話し合うことであり、三人で話し合うことは「鼎談(ていだん)」と言いますので、そのどちらとも違います。

それぞれの意見を「文書」にしてぶつけ合う方式でまとめられているものを「対書」として鳥飼先生は定義されています。

珍しい方式だと思いますが、実際に読んでみるとこの方式の良さがすぐに分かってきます。

というのも、普通の本は一人の著者によって書かれるので、視点はその人の視点に限定されます。その点、対談や鼎談は、その限定が外され、広い視点が得られる可能性が高まります。

しかしながら、通常それらはその人たちが顔を突き合わせている時間に限定されますので、後になって見落とされた視点が見つかることもしばしばあるのが普通です。

それに対して、対書は複数の専門家のインタラクションであることから、一人の著書による文章よりも広い視点を確保できる上に、対談や鼎談よりも時間的制約がない分、深い議論が可能となります。

このように「対書」という方式は、両方の良い点を併せ持った最強の議論の成果を出す可能性がある方式であると思いました。

前置きが長くなりましたが、本書の内容において私が最も印象的だったのは苅谷夏子氏がかつて一緒に大村はまの授業を受けた旧友に関して言及した以下の点です。

「卒業以来会う機会のなかった大変優秀だった友人M君に同期会で再開することができ、『あなたにとって大村教室はどういう意味を持っていたか、聞かせてほしい』とお願いしましたら、彼は『さすが』という見方を示してくれました。『僕があの教室で得たものはOSだと思う。コンピューターで言えばね』といったのです。」

そうです。

私のブログを継続してご覧いただいている読者の方であれば、すぐにお気づきかと思いますが、これは私が「小学校英語」に対する反対論を述べるときに必ず使用するフレーズです。

「母語」、ここで言えば「国語」はまさにコンピューターで言うところの「OS(オペレーションシステム)」であり、それに対して日本人にとっての英語などは、「アプリ(アプリケーション)」に過ぎない。

小学校時代というまさに思考の基本である「OS」を鍛えるべき時期に、「アプリ」に時間を使うなどもってのほかだというのがその反対論の趣旨です。

まったく同じ比喩が使われていて、今後使用することが少し憚られる気持ちもあるのですが、逆に言えば同じことを表現するのにそれ以外の比喩でこれを超えるものはなかなか見つからないことも事実です。

本質を追求すれば当然の帰結だと思いますので、これからも自信をもって今まで以上に積極的にこのフレーズを使っていきたいと思います。

 

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