
近代以降の日本語の発音について
2025年6月16日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
「日本語の発音はどう変わってきたか」の中で解説されている各時代ごとの日本語の特徴について見てきましたが、シリーズの第五回目の今回が最終回です。
最終回のテーマはいよいよ「近代以降の日本語の発音」です。
江戸時代以前、漢字の音読みは知識人のためだけのものでした(呉音は仏教界、中古音は貴族社会)。
しかし、江戸時代に入ると漢字漢語の情報は次第に大衆レベルに降りてきて、18世紀以後盛んになった木版印刷された大衆向けの読み物が盛んに出版されるようになり、一気に拡大しました。
しかしながら、その拡大とともに、鎌倉時代に音読みの仮名表記が確立して以降、「オ段長音の開合の混乱」や「四つ仮名の混同」等の音変化が重なったことで、「漢字音読み」の方法に大混乱を引き起こすことになってしまいました。
そのため、出版市場は「字音仮名遣いの基準」を切望するようになります。
その「字音仮名遣いの基準」を提供し、その大混乱を救ったのが国学者として有名な本居宣長です。
彼の著書「字音仮字用格」の序文にはそのあたりの雰囲気が分かる次のような記述があります。
「漢字音は鳥のさえずりのような中国語の発音をまねたものであり、皇国の雅な発音とは似ても似つかないものなので、漢語は古代では歌を詠むにも汚く卑しく、雅な和語と交えて用いられることがなかった。しかし、時代に日常談話をはじめ、文芸作品にも紛れ込んで、汚いとも、外国由来の音とも感じなくなって、最近では半分以上の言葉が漢語になっている。今では字音の仮名用法を知らないと書記生活が成立しなくなってきたが、それを解明した書物がまだ存在しない。」
つまり、宣長のこの著書は、漢字の音読みの仮名遣いの基準に対する需要にこたえる形で出版された「参考書」のようなものであるということになります。
その一方で、彼は民族主義者として古代日本語を美しいもの、中国語を汚いものとして軽蔑していたため、古代の日本人が漢字を日本に導入した際にそのままの音ではなく、日本語の音に近い形に加工して用いたはず(このことは、現代のカタカナ語が外国語の原音そのままでなく日本語風に加工されていることからも類推できる)だと考え、研究を進めた結果、奇跡的に古代日本語音声(文字につづられる前のオリジナル音)を再現することに成功したのです(これが彼がもっとも有名な国学者とされている所以です)。
彼の一石二鳥ともいうべきこの日本語プロジェクトによって大衆による口語文までを含む「漢字音読み」の方法の大整理が行われたにもかかわらず、明治の時代に入るとまた違った流れになってしまいます。
というのも、明治初年頃は日本社会の近代化に知識人が追われ、彼らへの期待は明治政府の公文書書式を決めることとその書式を教育する国語教育に向けられるようになってしまいました。
その結果、明治政府が採用した公文書書式は口語文ではなく「広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スベシ」のような漢文訓読を基調にした片仮名文語文になってしまいました。
この時期、私たちが想起する共通語=東京弁に近い意味でも東京語はいまだ存在していなかったので共通語を基礎にした現代口語文が成立するしていなかったこと、そして漢語が多く混入した文語文が全国的には通用性が高かったこともその理由です。
その後、明治三十年代になって、ようやく教養人が使っても問題ないような東京語が出来上がってきて、それに合わせて文学者が東京口語を基盤にした新しい小説文体の創造を目指した言文一致運動を展開したことによって、大正十年ころまでに口語体(現文一致)の小説や新聞、学校教科書が出現しました。
ただ、仮名遣いは奈良時代の用法を守ったままであり、実現した口語体は、東京語を基盤にしてそれに歴史的仮名遣いが乗るおかしな代物になってしまいました。
結局、発音の実態を反映した表音的仮名綴りは、第二次大戦後、アメリカ占領軍当局の助言により、昭和二十一年に吉田茂内閣が、「現代仮名遣い」を告示、訓令して決着しました。
今まで五回にわたって、日本語の発音とその表記のプロセスを通してみてきたわけですが、最後の最後、私たちが現在使っているこの完成版としての「字音仮名遣いの基準」が外国の助言がなければ成立することがなかったという事実に驚かされました。
藤原定家や本居宣長のような先人たちの偉業を知れば知るほど、このような歴史的事実の紹介でこの記事を終えるのが何とも情けなく悲しい気がします。