「部活」の存在意義とは何か
2024年6月12日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
先日(2024年5月31日)の東海テレビのウェブに「部活」に関して考えさせられる記事がありましたので以下、要約します。
「名古屋市立小学校の部活動で、指導を委託した業者が研修を受けていない指導員を派遣するなど、ずさんな対応をしていたことが明らかになりました。名古屋市立小学校では、部活動の指導の民間委託が2020年から導入されていて、教員の働き方改革につながると期待されスタートした事業ですが、2024年4月以降、多い日で1日に100件以上市に苦情が相次いでいます。その内容は、『来るはずの指導者が来ない!』『研修を受けていない人が指導をしている!』など。市は受託企業に対しあわせて90回もの改善指導を行いました。市の聞き取りに対し当該企業は『派遣した指導員は、競技経験もあって指導ができると思った』と釈明し『人員を増やすなどの対応を進めている』と説明したということです。子供たちの安全にも配慮が必要な部活動の現場で起きた今回の問題。取材に応じた河村市長は、問題があるとの認識を示しましたが、制度の見直しには言及しませんでした。」
そもそもこの問題は、学校教職員の働き方改革の一環として、2017年4月1日から学校教育法の一部改正により「部活動指導員」が制度化されたことから発しています。
私自身、「部活」は中学で「山岳部」、高校で「ラグビー部」として、どちらも下手をしたら命に係わる危険を伴う部活を経験し、自分自身の人格の形成にその経験が大いに役に立っていると感じています。
ただそれが実は、顧問の先生個人が、休日などを含めた多くの時間を生徒のために費やすばかりか、生徒の命を預かる重大な責任を負ってくれていたことでかろうじて成り立っていた経験であったことに対して、大人になった今、心からの感謝の念を禁じ得ません。
また同時に、先生方個人の負担と責任に十分報いるような報酬が伴う制度であったのか大いに疑問に思うところがあります。
そのバランスが明らかに崩れた制度だったからこその2017年度の変更であったはずで、またその新しい制度もそのバランスがとられることなく先走りすぎてしまったことが今回の問題の根本原因であると思うのです。
それには、そもそも「部活」というものの定義というか、この活動の制度内の位置づけがあいまいな形で存在し続けてきており、その「存在感」だけが以上に教育制度の中で大きなものになってしまって、そもそもの「存在意義」について十分な議論がなされないでここまで来てしまったことに問題があったのではないかということです。
つまり、このような大きな負担と責任を伴うことに十分見合うだけのコストを学校運営に必要なコストとして負担できないのであれば、そもそも「部活」を教育制度の中に組み込むべきではなかったはずで、制度としては「体育」もしくは「音楽」などの授業の中に収めるべきだっということになりましょう。
それなのにも関わらず、あまりにも「存在感」が大きいために、学校自らの責任から安易に切り離して「外部委託」という無責任な形でも維持させようとしたツケがこのような形で顕在化したと考えられます。
なんだかこの構図、何かに似ていると思いませんか?
そうです。
「英語」の存在感が大きくなったという社会的プレッシャーを感じた文科省が、人材育成はもとより、そもそもすでに働き方改革が必要なほどひっ迫していた小学校教師に全くの専門外である「英語教育」を丸投げしてしまったことで、現場の大混乱と大量の英語嫌いの小学生を作り出すこととなってしまった「小学校英語教育導入問題」とその無責任さにおいて非常によく似ているのです。
どちらも、その「存在意義」(「存在感」ではなく)を真剣にとらえ、本当に必要だと思うのであれば、必要なコストをねん出した上で対応するということが絶対に必要な重要な問題だったのです。
この記事のように、ただ委託業者の問題にして済むような問題では絶対にありません。