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はんこ屋さんに罪はない

2020年10月26日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

先日(2020年10月20日)の読売新聞の「編集手帳」に以下のような文章があり、この問題について真剣に考えさせられてしまいました。

「ハンコって何だろうと考えることの増えた時世である。きのうは文科省が小中学校の保護者印の廃止を通知した。補習授業の参加への意思確認やアレルギーの有無、進路希望調査といった様々な書類から排除するという。保護者や教員の負担軽減を図るのを目的とする。理屈はある程度納得しつつも、ふと街の印章店の店構えが浮かぶ。学校ともなれば影響は小さくないだろう。嘆きや戸惑いは想像に難くない。行政改革にスピードは大事だとしても、切ない心持ちになる。」

誤解していただきたくないのは、私は100%「ハンコ反対論者」です。

先日も、「印鑑社会の意味」という記事を書いたくらいですから、菅政権がまずは公部門からその改革を進めていくということに対して大賛成です。

しかし、この文章を読んだとき、どういうわけか大きな「怒り」がふつふつを湧き上がってきました。

この「怒り」の矛先はどこだろうと冷静になって考えましたら、「日本社会」ではないかと思い当たりました。

つまり、それは私自身を含めたこの日本全体という意味です。

というのも、「ハンコ」の不要性については、日本人の誰もが分かってて、分かっていながらも今まで続けてきてしまっています。

続けてきてしまったということは、日本社会として「必要」としてきたということです。

その理由はただ「社会はそう簡単に変わるものではない」という気持ちを日本人の誰もが持ってしまっていて、その一つ一つの積み重なりが日本社会全体の大きな気持ちになっていただけというものでしょう。

つまり、「不要」なものを「必要」だと社会全体として妄想し続けてきたということです。

変えられる立場にいる人が、「変える」と宣言しただけで実際に変わってしまったという現実が、それが妄想だったことを証明しています。

今まで変えられる立場にいたのにずっと変えることを怠っていた「政府」に対する怒り、その不要性を理解していたはずなのに(くだらないことは報道するくせに)、このことを社会問題として真剣にとらえてこなかった「マスコミ」に対する怒り、そして政府やマスコミですら問題視しないのだから、自分が何か言っても全く意味がないと思い込んでいた私自身(を含めた日本国民)に対する怒りが、この「怒り」の正体だと分かりました。

私は「怒り」を表明していますが、「街のはんこ屋さん」たちは怒りで済ませられるわけもありません。

社会が「必要」だとしてきたから、彼らはその需要に応えてきたのに、ある日突然社会全体が「必要」という妄想から目を覚まし、「不要」と言いだしたわけですから、その嘆き、戸惑いはいかばかりか想像を絶するものがあります。

人類の歴史の中で、特定の産業が社会から求められなくなって消滅するまでには、必ず一定の時間が与えられるものです。

その時間の中で撤退すべきタイミングを見計らうというのがその産業に身を置く「経営者」の常道でしょう。

このように一夜のようにしてその産業に三行半が突き付けられるという事態を経験した彼らに対して「経営者」として落ち度があったと私たちは言えるでしょうか。

しかしながら、「行政改革にスピードは大事だとしても、切ない心持ちになる。」という文章が政府に対する批判であってはならないと思います。

なぜなら、それは政府も新聞も私たち国民も自戒の言葉として反省しなければならないことだと思うからです。

その反省の先にあるべきものは、あらゆるものに関して、「要らない」と気づいた時にそのことを率直に問題提起し、改善につなげるという姿勢だと思います。

そして、その対象は「ハンコ」以外にもまだまだたくさんあるはずです。

 

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