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アドラー心理学

2017年1月29日 CATEGORY - 代表ブログ

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皆さん、こんにちは。

「もっとお金持ちのうちに生まれていたら」、「もっとイケメンに生まれていたら」など、人間は自らの境遇についてあれこれ悩み、自分よりも優位に見える人のことをうらやましいと思ったりしてしまいがちです。

しかし、そのような人間の「本質」とも思えるようなものを完全に否定する理論を打ち立てた心理学者がいるのをご存知でしょうか。

オーストリア出身の心理学者、アルフレッド・アドラーその人です。

今回、アドラー心理学の考え方をギュッと凝縮した本である「嫌われる勇気」を読み、その考え方に感銘を受けましたので、彼とその考え方についてご紹介したいと思います。

彼は、フロイトやユングなどと比べるとあまり有名ではないかもしれませんが、実はアドラーは当初、フロイトと共同研究を進める仲間であったのですが、しだいに意見の相違が目立つようになり、1911年に完全に袂を分かってしまうことになりました。

その意見の相違を簡単に表すと、フロイトが「原因論」に立つのに対して、アドラーが「目的論」に立っているというものです。

例えば、「女の子にもてない」という現象を説明するのに、フロイトは「イケメンではない」という身体的特徴を持っていることが、その現象の「原因」であると説明するのに対して、アドラーは、その「女の子にもてない」という現象に対する「言い訳」を作り出すという「目的」を達成するために、「イケメンではない」ということを自ら持ち出しているにすぎないというように考えるのです。

このことをもう少し分かりやすく説明した部分を本書から抜き出してみます。

「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。我々は、自分の経験によるショック(トラウマ)に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。」

もっと直接的な表現として以下のようにも言っています。

「大切なのは、何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。」

すなわち、究極的には、次のような結論となります。

「つまり、我々を苦しめる劣等感は、『客観的な事実』ではなく、自分自身が作り出す『主観的な解釈』なのだ。」

この考えに触れたときに、私は「救われた」という気持ちと「厳しいな」という気持ちが半々ずつ持ち上がってきたような気がしました。

フロイトのように、「原因論」にて悩みを解釈するのであれば、原因が解消されなければ決してその悩みは消えることがありません。その意味では、原因を解消できれば、問題解決し、解消できなければ、もはや諦めるしかないということになります。

これでは、「救われない」ことも多いかもしれません。しかし、「救われる」為に、勇気を振り絞る苦労から逃れることも可能です。

それに対し、アドラーの「目的論」では、全ては自分自身の『主観的な解釈』次第であるので、どんな場合にも、自らが「救われる」為に、勇気を振り絞ることが求められることになるわけです。

生きていくことは、勇気を振り絞ることである。

アドラーの心理学がフロイトほどメジャーではないという事実は、もしかしたらこのあたりの厳しさから、人類が逃げてきた証なのではないかとすら感じてしまいました。

 

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