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なぜイランとアメリカは仲が悪いのか

2019年6月17日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

先日(2019年6月13日)、中東関連で非常に大きなニュースがありました。

「アメリカとイランの緊張緩和に向け、イラン最高指導者アリー・ハメネイ師と安倍晋三首相が会談した13日、ホルムズ海峡近くで日本の海運会社が運航するタンカーなど2隻が攻撃を受け、軍事衝突の危険性がさらに高まる事態になった。タンカーに対する攻撃は、アラブ首長国連邦(UAE)沖で5月に起きた事件に続くもので、アメリカ政府はいずれもイランが関与したとの見方を示している。」

さらにこの記事では、

「どちらの事件も犯行声明は出されておらず、イランの犯行を示す決定的な証拠もない。ただ、アメリカ政府による経済制裁強化に反発するイランは、かねて『必要があればホルムズ海峡を封鎖する』と警告しており、一連の攻撃は、原油輸送の大動脈であるホルムズ海峡に対する生殺与奪の軍事力を保持していることを誇示したいイランの思惑に沿う。」

とあり、アメリカのイラン犯行説に一定の正当性を示唆しています。

しかし、日本における大方の報道などを見ると、まさかイランとしても日本の首相がイランのトップとアメリカとの関係改善のための会談の真っただ中でそのようなことを起こすことなど考えられないとして、今のところアメリカの主張にも一定の距離を置いているように見えます。

ですが、このあり得ない流れを当然のことのように主張するアメリカと公然とそのアメリカを批判するイランの関係は厳然として存在するわけで、どうしてここまで二国間の関係が悪いのか、純粋に疑問が湧いてきます。

そのことを理解するためには、この二国間の外交史を学ぶ必要があると考え、調べてみましたので以下要約します。

「元軍人のレザー・ハーンのクーデターによって成立したパーレビ朝によって1935年にペルシャからイランに正式に名称が変更された後、第二次世界大戦中にはイギリスとソ連による分割支配をうけるが、1943年にテヘラン宣言によって戦後のイラン独立が認められる。その後、ソ連の約束違反もあったが、結局1946年にイランの領土は再統合された。レザー・ハーンの息子であるモハンマド・ハーンが国王として君臨するが、基本的には議会に政治を任せる仕組みをとった。イランの石油は欧米企業の支配下に置かれ、利益を吸い上げられていた。ところが1951年、民主的な選挙によってモサデク政権が誕生すると、モサデク新首相は就任直後にイランの石油産業を国有化して欧米から奪還。すると米英は、すぐさまモサデクを失脚させて米英寄りのパーレビ国王に君主政治を敷かせるべくクーデターを起こした。しかしこれが、イラン国内のリベラル派と保守派の両方を敵に回し、その後の両国関係に決定的な影響を及ぼすことになる。保守派は宗教と無関係なパーレビが権力を掌握したことに憤慨し、リベラル派は民主主義が葬り去られたことに落胆。79年には、アメリカの傀儡となったパーレビ政権を打倒しようと国民がイラン革命を起こした。いわゆるホメイニ革命である。これによって、米外交にとって安定した支柱だったイランが最も不安定な要素に様変わりした。革命の結果イスラム共和国となったイランは、同様の革命をアラブ諸国に輸出しようとしたほか、アメリカの同盟諸国やそれらの近隣諸国に対するテロに資金を援助するようになった。80年代に入ると、アメリカはイラン・イラク戦争でイラク側についた。その後、レバノン、イラク、シリアなど米外交が機能していない中東諸国で影響力を増したイランは、この地域における反米勢力の代表格としてシーア派民兵組織のネットワークを強化し、アメリカの意図をくじこうとしている。例えばイランが後押しするイエメンがアメリカの同盟国であるサウジアラビアと代理戦争を繰り広げたりと、中東でイランとアメリカの対立に無関係な国はほとんどないと言っていい。」

日本がアメリカとの同盟を最重要政策と掲げながらも、イランとそれなりの関係を保っている中で起こった出光のイランからの石油の直接買い付け騒動については、こちらのブログに書きましたのでご参照ください。

今の報道だけを見れば、アメリカが正義、イランは厄介者、イギリスは無関係というように見えてしまう部分が大きいのですが、この歴史を見れば、この問題の根幹はアメリカを含む欧米、特に現在無関係のようにふるまうイギリスのかつての帝国主義的な政策が発端になっていることが分かります。

欧米の自分の利益のためによその国を好きなように操るという無慈悲なかつての行いによって、イランだけでなく多くの中東の人々が「憎しみ」を抱くことにつながっているのです。

現時点にて、日本はその欧米に面と向かって、「お前らが悪い」という指摘はできないというのが正直なところでしょう。

しかし、かつては「海賊と呼ばれた男」出光佐三のように、一民間人としてその欧米に向かって本来あるべき主張に基づく実力行使をした日本人もいたのです。

今回は日本のタンカーが当事者となったわけですから、この問題を考えるにあたり、歴史の流れを理解した上での受け取り方ができるようになりたいものです。

 

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