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エコロジー的発想のすすめ

2021年1月10日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

以前に「人新世の資本論」をご紹介して、資本主義の考え方でこの地球環境の限界を突破することはほぼ不可能であることをまじまじと理解させられてしまったことについて書きました。

その中で著者が強調されていたのは、資本主義の後に来るべき経済システムは晩年のマルクスが構想していた(カッコ付の)「コミュニズム」だということでした。

私は今でもどちらかと言えば「保守」の考えを是とする人間だと考えていますが、本書を読んで、カッコ付とはいえ「コミュニズム」と表記されるような考え方に共感する部分を数多く見つけたというのは自分でも意外でした。

そこで、ではなぜ私が著者の考えに共感できたのかを自問してみたところ、著者の主張の中にある「エコロジー」の考え方に非常にひかれているからではないかと思い当たりました。

そこで、この「エコロジー」という考え方を学んでみたくなり、「知の巨人」と呼ばれる立花隆氏の「思考の技術~エコロジー的発想のすすめ~」を読んでみました。

まず驚いたことは、本書が実は著者が1971年に書かれた内容を、ほんの一部のデータ等をアップデートしただけで、ほぼそのままにして2020年の今再び新書として発刊されたものだということです。

にもかかわらず、本書が「エコロジー」とは何たるか、その物の見方、考え方を非常に分かりやすく論じていることで、著者が「知の巨人」と呼ばれる理由を再確認せざるを得ませんでした。

前置きが長くなりましたが、「エコロジー(生態学)」とは何かについて見ていきたいと思います。

そもそも、「エコロジー(生態学)」とは「生態学は生物と環境及びともに生活するものとの関係を論ずる科学」であるとされ、生物学の一分野です。

ですが、著者はこの学問の本質を、上記定義の中の「関係を論ずる科学」に着目して、これを生物学に限定せずに、「エコロジー的思考」を「正しい関係づけの上に立つ思考」と再定義しています。

つまり、「エコロジー的思考)」とは「風が吹けば箱(桶)屋が儲かる」のロジックを様々な現象に当てはめて問題解決につなげる思考方法であると言えます。

ですが、このことに続けて著者は、そう考えれば、「エコロジー的思考」を体得している人は生態学者に限られることなく様々な分野において見つけることができるし、逆に生態学者でも「エコロジー的思考」を身に着けていない人間はあまたいると言います。

生態学者でなくても「エコロジー的思考」を身に着けている人として著者は、佐藤栄作、毛沢東、アルカポネ等々を挙げています。

「?」と思いますよね。私も同じように感じましたから。

その「?」を解消すべく、以下に本書より「そのこころ」を書いている部分を私なりに要約して書いてみたいと思います。

「『エコロジー的思考』の実践とは、十返舎一九の東海道中膝栗毛の中に出てくる『風が吹けば箱(桶)屋が儲かる』のような論理的な構造を読み解いて問題解決にあたることを言う。たとえば、佐藤栄作は安定政権を実現した『政界の人事』において、毛沢東は共産党を勝利に導いた『ゲリラ戦術』において、アルカポネは禁酒法を逆手を取った『アングラ支配』において、それを実践した人である。つまり、『強風が吹けば、砂ぼこりにやられて、盲人がたくさん出るに違いないと考える。盲人の生きる道として手っ取り早いのは三味線の流し。盲人が数多く出れば三味線屋が繁盛するだろう。三味線の胴は猫の皮。三味線がどんどん売れればそれに従って猫の皮が必要になる。猫狩りが盛んになって、世間の猫の数は激減するに違いない。そうなるとネズミの天下。ネズミはどんな箱でもかじる。だから、どんな箱でも値上がりするに違いない。と考えて重箱から櫛箱までありとあらゆる箱を買い込んだという話』だ。話の中では、結局この目論見は外れて、箱はさっぱり売れず、この男、それによって世の無常を悟り、巡礼になったというのだが、この考え方の構造は正しい。これこそ生態学的思考なのである。この男の失敗は、考え方の適用になるのであって、考え方そのものにあるわけではない。」

今現在、人類はまさにこの考え方を「地球環境」に当てはめざるを得ない状況に追い込まれています。

そして、その論理のつながりは、仮にところどころ抜けているところはあるかもしれませんが、大まかなところまでは「生態学者」でなくても分かっているわけです。

素人の私たちですら、この弥次喜多の話に出てくる「風が吹けば箱(桶)屋が儲かる」のロジックよりも現実的だと誰もが分かっています。

ですが、完全に「エコロジー的思考」に則っているとは言えません。なぜなら、そのためのアクションをとるスピードが遅すぎるのです。

なにせ、1971年に著者がこのようにはっきり「エコロジー的思考」の必要性を明確に世の中に対して指し示したのに、50年たった今ですら、問題解決どころか、誰もが納得できる案すら出ていないわけですから。

人類は、「論理的な構造を読み解く」ことはできても、「問題解決にあたる」ことまでつなげることができずに、「引き返すことができない」ポイントに近づきつつあるわけです。

いや、もしかしたらそのポイントを過ぎてしまったことすら否定できない可能性もあります。

私たちは、「エコロジー的思考」とは「論理的な構造を読み解く」ことだけでなく、「問題解決にあたる」ことまで含めた概念であるということを改めて認識しなおせなければ、本当にそのポイントを過ぎてしまうことを受け入れなければならないと思います。

 

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