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キリスト教の危機

2019年1月28日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

先日(2019年1月23日)の日経電子版に「オーストラリアで教会不信が強まり無宗教化が進んでいる」という次のような記事がありました。

「オーストラリアで、キリスト教離れが進んでいる。11年に最多の「カトリック」は25.3%から22.6%になり、30.1%に増えた「無宗教」に抜かれた。「英国国教会」も17.1%から13.3%へと3.8ポイント落ちた。キリスト教全体の割合は52.1%。50年前の1966年は88.2%がキリスト教のいずれかの宗派と答えていた。若者の教会離れに加えて、教会で長年性的虐待が行われていたとの報告書が国内で発表されたこともキリスト教には逆風となる。イスラム教やヒンズー教は増加傾向だが、今後もキリスト教離れによる「無宗教」の増加は続きそうだ。」

記事ではこの傾向の原因として次のようなものがあげられていました。

「教会は神の教えを伝えることより伝統的な慣習に重きを置いている。性的少数者(LGBT)への接し方にも疑問を感じる」

「生活が豊かになると、人々は宗教に背を向けるのかもしれない」

また、さらに気になったのは、積極的に「無宗教」に誘導する次のような活動の存在をあげていることでした。

「豪無神論者財団代表のスコット・シャラド氏は16年の国勢調査の結果について「我々のキャンペーンが奏功した」と胸を張る。財団は調査前、信仰する宗教がない場合は両親や祖先の宗教ではなく「無宗教」を選ぶよう働きかけ、「宗教を持たなくても問題ないと、豪州人に気付かせた」という。」

私は、カトリック信者ではありませんでしたが中学高校とカトリックのミッションスクールで過ごしました。そこでは、学校経営は基本的にフランス系カナダ人の修道士によって行われていました。

カトリック信者の生徒向けにミサが定期的に行われていましたが、こちらが拍子抜けするほど、それらの出席を強制されるようなこともなく、カトリック倫理の授業はありましたが、そちらについてもあくまでの「倫理」という社会科の教科の延長線のような感じでした。

そのため、私としてはキリスト教の存在に対して、なんとなく日本における仏教と同じようないい意味での「ゆるさ」を感じていたのですが、アメリカ留学でホームステイをすることでアメリカの家庭の事情を体感することによって、西洋文化における「キリスト教」の「きつさ」を理解することとなりました。

その「きつさ」とは、言い方が良くないかもしれませんが、具体的に言うと一神教の「押しつけがましさ」という感覚でした。もちろん、ホストファミリーはいい人で、決して悪気があるわけではありませんが、一つの「神」を信じない人間を信じさせるようにすることは、その人のためなのだという「確信」を持っているようなところがありました。

私はその当時も、日本人は、自然を惧れ、そこには八百万の神の存在を認めつつ、仏教やキリスト教といった外来の宗教のいい部分を取り入れるという柔軟な発想を持っているだけで、何物も恐れない「無神教」論者ではないと主張し、時折議論がヒートアップすることもあったものです。

その後、イラク戦争や9.11を経てアフガニスタンの戦争などを見ることで、私にはそのような考えが顕在化したように見えて仕方がありませんでした。

そして、今では特定の宗教を絶対視するのではなく、宗教的にいい意味での「ゆるさ」をもつことが人間としての本来あるべき心の持ちようであると確信するようになりました。

それは、何物も恐れない「無神教」とは全く異なるものだと思います。

ですから、この記事にあるようなオーストラリアのキリスト教離れが、単に何物も恐れない「無神教」の人々が増えるということでなく、人間の力を超えた存在を特定の「神」としてでなくとも尊重できる人が増えているということであってほしいと思います。

 

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