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フラガールにみる地域変革の苦悩

2014年9月28日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

ランゲッジ・ヴィレッジがある静岡県富士市は富士山の豊富な地下水に恵まれ、古くから製紙を中心とした工業都市として栄えてきました。

しかし、1990年代半ばより、海外からの安価な紙の輸入増加やバブルの崩壊による需要減などによる紙価低迷で経営難に陥る中小製紙会社が急増し倒産・廃業が相次ぎました。

生き残った企業においても苦境は続き、2000年代前半には、製紙業界全体の再編によって企業数自体が大幅に減少することになってしまいました。それによる地域の税収と雇用は非常に大きな痛手を負い現在に至っています。

昨今では富士山の世界文化遺産への登録もあり、観光業への産業構造転換が叫ばれていますが、あまりに長期間にわたって、工業地域として栄えてきたこともあり、自己否定を伴う抜本的な変革を断行することは難しく、ずるずると時間だけが経過するという状況が続いています。

私たち富士市民は、あまりに過去の遺産が大きすぎたためその産業基盤の上に惰眠をむさぼりすぎたというのが本当のところかもしれません。

例えば、こんなところにもその一例があります。

ランゲッジ・ヴィレッジにいらっしゃるときに皆さんが利用する新幹線新富士駅および在来線の富士駅。この二つに接続がまったくなく、新幹線の新富士駅が孤立していることに戸惑われる方は少なくありません。(そのため、送迎バスは新富士駅と富士駅の両方に回るようになっています。)

これには理由があります。

昭和四十年代に新幹線に新駅を設置するという話が持ち上がったとき、当時の富士市は静岡県内で有数(ということは全国的にも)の工業生産高を誇る都市でした。ですから、当然、熱海と静岡の間に新駅を作るとしたら富士市が順当のはずでしたが、地元が反対したために、昭和四十四年に「三島」に設置という決定がなされました。

私も記憶にあるのですが、東京から富士市にお客さんが来るときにはわざわざ、車で三島まで送り迎えをしなければならなかったのです。その不便さに気がついた富士市民は、あとから慌ててJRに新駅設置を請願して、昭和63年にようやく設置がかないました。

しかし、計画性もなくあわてて作ったということから、すでに開発済みである在来線の富士駅への設置は不可能のため、新富士駅という在来線とは別の駅を作らざるを得ませんでした。しかも、同じ理由から、両駅間の線路による接続もかなわず、現在に至る不便な状態が作り出されてしまいました。

このことで明らかになるのは、既存の産業によってその土地の生活が成り立っているということは、新しいことへの挑戦や受け入れということに対して、その便益の価値を検証することなく異常な拒否感のみを示すことになるということです。

現在の富士市では、なぜあの時地元が反対してしまったのだろう?と富士市民のほとんど全員が悔やんでおり、新富士駅と富士駅を接続しようというような話が市議会や市長選挙の度に政策提言として出ては消えることが定番化しています。当然、コスト的にも時間的にもそれを実現することは無理であるという暗黙の了解の上でです。

すべては、あの時点で、なぜか「地元が反対した」ことという変えられない事実だけが厳然として存在しています。

あの時なぜか「地元が反対した」状況と非常に似通った状況を描いた映画を先日見ました。

 フラガール」という映画です。

これは、昭和40年、大幅な規模縮小に追い込まれた福島県いわき市の常磐炭鉱が舞台の映画です

エネルギー革命により石炭の需要が石油に取って代わられつつある中、炭鉱で働く人々が職場を失う現実・苦悩に立ち向かい、町おこし事業として立ち上げた常磐ハワイアンセンターの誕生から成功までの実話を元に描かれています。

この映画の中で豊川悦司扮するハワイアンセンター運営に反対の炭鉱夫が漏らした次の言葉が最も印象的でした。

「時代が変わったからって、なして俺らまで変わらなきゃなんねえ?勝手に変わっちまったのは時代のほうだべ。」

それに対する松雪泰子扮するハワイアンセンターのフラダンス講師の一言。

「そうやっていつまでも時代のせいにしてれば?」

とにかく現状にしがみつくという人間の本性ともいえる姿勢です。そして、それは現状が幸せであるかどうかはまったく関係がないようなのです。

富士市も工業都市として発展はしていましたが、工場排水による田子の浦港のヘドロや四日市市と並ぶぜんそくなどの公害問題が全国的に知られることとなりました。常磐炭鉱でも頻繁に落盤事故が起こりそのたびに多くの炭鉱夫が犠牲になるなど、決して労働環境的には恵まれたものとはいえなかったと思います。

それにもかかわらず、多くの人間はそのような決して理想的とはいえない「現状」を維持することを何よりも望むという選択をしてしまうのです。

この映画を見て分かることは、それを打破する唯一の方法が「より良い結果」を誰かが目に見える形にすることだということです。

東京から招かれたフラダンス講師による特訓を受け、最初はフラダンスと裸踊りの区別さえできていなかった炭鉱娘達はひたむきな熱意をもってプロのダンサーになるべく努力します。

もちろん、最初はまったくの素人だった炭鉱娘たちは自分自身の中にもある「現状維持」の気持ち、そして家族やその周辺からの妨害など、ひとりひとりが厳しい現実を抱えながらも、友情を支えに強く美しいフラダンスのプロに変わっていきます。

それができたのはやはり、彼女たちに「若さ」と「好奇心」があったからだと思います。その二つが、彼女ら自身の中にあった「現状維持」の気持ちをかろうじて上回ったところから、「実績」を積み重ねることで、最終的に誰もが妨害することができないほどの「うねり」へと成長していったのだと思います。

そして、その「実績」の積み重ねによる「うねり」は、次第に「若さ」と「好奇心」を持たない普通の人々の心に影響を与えることになります。そして、ついには、最も強硬に新事業である「ハワイアンセンター開設」に反対していた人間の次の言葉が状況を大きく変えることになります。

「今まで仕事ってのは真っ暗な穴の中で死ぬか生きるかでやるもんだと思ってた。だけんど、あんだふうに踊って、人様に喜んでもらえる仕事があってもええんでねえか?あの娘らならみんな笑顔ではたらける。そっだ新しい時代作れるかもしんねえ」

昭和41年ハワイアンセンターはついにスタートを切ります。そして、その10年後、常磐炭鉱は完全閉山。延べ、4400人あまりが解雇されることになります。しかし、常磐炭鉱の会社は常磐興産株式会社として現在も常磐ハワイアンセンター改めスパリゾートハワイアンズを運営しています。

そして、あの東日本大震災をも乗り越えるすばらしい産業基盤として現在のいわき市になくてはならない存在となっているのです。

常磐炭鉱にあって富士市にたりないもの、それは「より良い結果」を目に見える形にする「誰か」です。

「若さ」と「好奇心」だけは忘れずに、この富士市で「より良い結果」を目に見える形にする「誰か」になるべく私も努力していかなければと改めて思った次第です。

 

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