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世界は贈与でできている

2021年4月20日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

ここ最近、マルクス経済学を見直す若い経済学者の活躍が目立ってきており、このブログでも何回かにわたって彼らをご紹介してきました。

彼らの主張は資本主義の限界を超えるためには、バイアスを取り除いた上でマルクスの学説を見直すべきだというもので、その内容には非常に説得力があります。

ただし、彼らも「経済学者」であることに変わりがなく、当然ですがあくまでも「経済学」の中での議論、すなわち「お金で買えるモノ」の範囲での議論にとどまっていると思います。

しかし、この世界は実は「経済学」では測れない(お金で売り買いされない)けれども確かに人間にとって「価値」がある「何か」が存在していることを私たちは実感しています。

そして、資本主義の限界を超えるためには、その「何か」に関する考察が不可欠だと思います。

今回は、その「何か」についてどっぷり考えさせられる本、その名も「世界は贈与でできている」を読みましたのでご紹介します。

著者は若干36歳の哲学者です。

「経済学」という学問はそれを学んだことのない人間にもなんとなく想像はつくと思いますが、「哲学」という学問については想像が難しいと思います。

私自身、そのイメージを問われても答えることができませんでした。

そんな馴染みのない「哲学」ですが、本書の冒頭でそのイメージを次のように示されていて、非常に納得しました。

「哲学の生業は概念づくりであり、その目的は人類の幸福な生存である。つまり哲学とは僕らが生きていくためのテクノロジー、生活の技なのです。そして、その技によって幸福な生を実現することができる。(一部加筆修正)」

では、著者がその技を駆使して導き出した「贈与」の概念を以下に引用したいと思います。

「商品であった腕時計が『贈り物』として手渡された瞬間に事態は一変する。仮に手渡された後それをなくしてしまったら、僕らの多くにはその後ろめたさが生じる。贈り物の時計も仮に贈り主に内緒でこっそり買った同じ時計もモノとしては等価なのに私たちにはそうは思えない。つまり、そこには商品としての価値からはみ出す何か『余剰』とも言うべきものが生じる。重要なのは『その余剰分を自分自身では買うことができない』点だ。贈与とはモノを『モノではないもの』へと変換させる創造的行為と言える。だから私たちは他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができない。『自分へのご褒美』という言葉の空虚さの理由がここにある。」

かつての日本社会は資本主義社会を基本としながらも、かなりの部分このような「余剰」の創造行為である「贈与」によって資本主義の足らない部分を補ってきました。

しかしながら、現代の私たちはこの「余剰」を「しがらみ」と呼んで排除し、資本主義を前面に押し出し、すべてを商品化する「自由」な社会に変えてきました。

ありとあらゆることを自前で買わなければならなくなり、それができなくなればこのゲームにプレーヤーとして参加する資格がないと言わんばかりに。

その結果、私たちはいたるところで「資本主義の限界」を感じるようになってしまったというのは、いままでのブログ記事でご紹介した通りです。

やはり私たち人間は「世界は贈与でできている」という認識を一定水準以上に維持しなければ生きてはいけない社会的動物なんだと思います。

 

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