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人新世の資本論

2020年9月25日 CATEGORY - 代表ブログ

 

皆さん、こんにちは。

何年も前のことになりますがこのブログで、日本大学の水野和夫教授の講演内容をあげて、資本主義の限界について考え、人類として「資本主義の次」のシステムの発明をする必要があるという議論をご紹介したことがあります。

ただ、その水野教授もそのシステムの具体的なイメージについては、「それを明確に描く力は今の私にはありません。」という告白をされていました。

それほど、私たちは「資本主義」を前提に生きてきた時間が長く、その限界を感じてはいてもそれに取って代わるシステムを明確にイメージすることは難しいのだと理解してしてきました。

それから4年以上の時間が流れ、今年になって書かれた大阪市立大学の斎藤幸平准教授の「人新世の資本論」の中に、少なくとも私は初めて、その「資本主義の次」なるシステムがかなり明確に書かれているのを見つけました。

本書のカバーにおいて、水野教授はこの若干33歳の若き学者に対して「資本主義を終わらせれば豊かな社会がやってくる。だが、資本主義を止めなければ歴史が終わる。常識を破る衝撃の名著だ」と絶賛されています。

まず、本書のタイトルにある「人新世」とは何かについての説明が必要かもしれません。

これは、ノーベル化学賞受賞者であるパウル・クルッツェン氏が提唱した20世紀半ばを開始年代とする人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与え始めた時期を起点として提案された地質時代区分を言います。

ただし、正式には地質時代区分として承認されておらず、公式的には氷河期の終わりである1万年前から現代までは「完新世」とされています。

本書では、タイトルにこの言葉が使われてい通り、著者は人類は地球環境を破壊しながら発展してきており、特に資本主義の世の中になってそれがもはや不可逆的で壊滅的な結果に終わることがほぼ確定してしまっていると主張しています。

そして、その人類にとって最悪な結果を回避するためには資本主義に代わる新たなシステムを登場させなければならず、それが「脱成長」だと日本の学者ではほぼ初めてそのシステムのイメージを明示されています。

著者は、そもそもこのグローバル経済における先進国の住人として生きる私たちが理解しなければならないことを次のように指摘しています。

「ドイツの社会学者ウルリッヒ・ブラントは発展途上国からの資源やエネルギーの収奪に基づいた先進国の大量生産・大量消費の豊かなライフスタイルを『帝国的生活様式』と呼び、その裏側ではその代償を発展途上国の人々に押し付ける構造が存在していると言う。このような耳の痛い指摘はこれまでも何度もなされてきたけれども、私たちはいくばくかのお金を寄付するくらいですぐにまた忘れてしまう。すぐに忘れることができるのは、これらの出来事が日常においては不可視化されているからである。」

今までこのように見えないふりをして途上国に押し付け続けてきた資本主義経済ですが、とうとう押し付ける場所を失った結果、先進国を含めた全地球的に限界を迎えてしまったというのが今の状況というわけです。

これを回避するための微かな希望として「脱(経済)成長」という考えを著者は以下のように紹介しています。

「オックスフォード大学の政治経済学者のケイト・ラワースは地球の生態学的限界の中でどのレベルまでの経済発展であれば人類全員の繁栄が可能になるかをまず科学的に明らかにした上でその方法を逆算する必要があると言います。地球上にはまだまだ最低限の生活水準に到達していない発展途上国の人々がいるため、彼らの水準を最低限にするために必要な環境負荷を考えれば、先進国は経済成長をさせるような余裕は全くない、すなわち『脱成長』が必要になります。(一部加筆修正)」

また、これを突き詰めて考えていくと最終的には地球全体を民主的に「共有・管理」する(共産党が独裁する仕組みとは異なり、あくまでも民主的な)「コミュニズム」という考え方に至ると著者は言います。

現実的には、今の地球の状況が今すぐ行動に移したとしてももはや手遅れかもしれないという「待ったなし」の状況にあるわけですが、そう言われても一度このような豊かさを味わった先進国の住人である私たちはそれを捨てることに対して非常に大きな苦痛を感じてしまうものです。

そのため、今までであればおそらく手遅れになるまで実行に移すことは難しかったと思います。

ですが、私たち人類はこのタイミングで「コロナ禍」を経験してしまいました。

「人命」と「経済」のバランスを突き付けられ、「人命」を優先するために「経済」を我慢する必要に世界中が迫られました。

そして、特に日本では自分たちの行動を大きく制限することを自ら積極的に政府に求めるという人たちが多数派を占めるという現象まで起こりました。

これは、「人命」の危機を自分事として感じることができ、それを守るための行動制限であればその我慢はむしろ歓迎する性質が私たちの本能に組み込まれているのではないかということを図らずも知ってしまいました。

このことから、著者が指摘した「資本主義の次」として、持続可能性の枠内で社会的欲求を最大限満たす最適解を導き出すという新しいシステムは意外に受け入れられるのではないかと、今だからこそ思えるような気がします。

 

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