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人類が「個人主義」を獲得するために犠牲にしたもの

2021年7月28日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回まで複数回にわたって、「サピエンス全史」から重大なテーマをいただいて書いてきましたが、いよいよ今回が最終回です。

本書では人類が先史時代から現代までの間にいかにして歩みを進めてきたのかという壮大な物語を非常に分かりやすく、それでいて独創的な視点で描かれています。

その物語は、最後の最後までこのブログで書き留めておきたいと思うようなネタが惜しみなく提供される非常にエキサイティングなものなのですが、そのラストを飾る今回のテーマは、現代にいたるまでの人類の発展の最終的な到達地点ともいえる「個人主義の獲得に伴って私たちが失ったもの」です。

私たちは今「個人主義」が当たり前の世界で生きています。

本書では、私たち人類が「個人主義」に移行することによってどのような変化を経験してきて、そして今後それがどのような方向に向かっているのかについて、かなり生々しく書かれていました。

以下にその該当部分を引用します。

「かつてはあくまでも家族やコミュニティーが、学校であり、会社であり、警察であり、医療機関であった。つまり、何をするにもコミュニティに依存しなければ誰もが生活できない状況だった。こうした状況は全てこの2世紀の間に一変した。産業革命は国家や市場にかつてないほど大きな力を与えたが、はじめのころは国家や市場が自らの力を個人に対して行使しようとすると伝統的な家族やコミュニティがそれを妨害した。そこで国家と市場は決して拒絶できない申し出を人々に持ち掛けた。『個人になるのだ』と。『親の許可を求めることなく、誰でも好きな相手と結婚すればいい。地元の長老らが眉を顰めようとも何でも自分に向いた仕事をすればいい。たとえ毎週家族との夕食の席に着けないとしても、どこでも好きなところに住めばいい。あなた方はもはや家族やコミュニティに依存していないのだ。我々国家と市場が代わりにあなた方の面倒をみよう。食事を、住まいを、教育を、医療を、福祉を、食を提供しよう。年金を、保険を、保護を提供しようではないか』と。」

このような移行は、西洋諸国では日本と比べてもう少し早く、そして日本では戦後になって急速に深められてきたと言えます。

そして、一般的にはこのことを「いいこと」だと私たちは認識してきましたが、ここへきてもしかしたらそうではないのかもしれない疑念が膨らみ始めています。

そのことについて、本書では次のように続けます。

「だが、個人の解放には犠牲が伴う。今では強い絆で結ばれた家族やコミュニティの喪失を嘆き悲しみ、人間味にかける国家や市場が私たちの生活に及ぼす力を目の当たりにして、疎外感にさいなまれ、脅威を覚える人も多い。孤立した個人からなる国家や市場はその成員の生活にたやすく介入できる。マンションの管理人に支払う額についてさえ合意できない我々が、国家に抵抗することなどどうして期待できるだろうか。個人は国家も市場も求めるものは多いのに提供するものが少なすぎると不満を漏らす。何百万年もの進化の過程で、人間はコミュニティの一員として生き、考えるように設計されてきた。ところがわずか2世紀の間に、私たちは疎外された個人になった。」

私たちは、わずか2世紀で何百万年もの進化の過程で獲得した性質を凌駕する力を得た気になっているけれども、どうもそれはそう簡単なことではないのかもしれません。

かつて家族やコミュニティが担ってきた「仕事」は、国家が限られた税金によって賄うにはあまりにも大きすぎて、とても皆が満足する水準を維持することは難しいことが、少子高齢化が圧倒的速さで襲ってきた日本においては明らかになりつつあります。

そしてこれが、最近マルクスの言説が見直されるような議論が多くなってきた理由なのかもしれません。

著者のこの主張をしっかりと捉えようとすると、かつて私たちが忌み嫌って何とかそこから脱却しようとしていた「伝統的家族やコミュニティ」こそが、実は以前にご紹介した「世界は贈与でできている」という本の中で議論された「贈与の本質」そのもののような気がしてきました。

今、私たちはいろいろな意味で立ち止まって考える必要がありそうです。

 

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