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国富論

2020年8月28日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回、「マルクス経済学」で経済学の古典をかじるという経験をしたその勢いで、今回は近代経済学の祖とも呼ばれるアダム・スミスの「国富論」を読んでみることにしました。

ただし、ちょっと横着をして「超訳」を選択してみました。(笑)

ちなみに、超訳とは「一度直訳調で訳したものを,日本の読者向けにさらになめらかな日本文に書き換えたもの」ということになっています。

実際に読んでみると、上記の意味での「超訳」の範囲をかなり超えてしまって、「国富論」を現代の日本の状況にからめた翻訳者の「主張」がかなり入っているなと感じました。

ただ、そのために、非常に分かりやすくなっていることも事実です。そして、その翻訳者の「主張」というのは次のようなものです。

「アダム・スミスの『国富論』は、『自由主義経済』による競争の重要性や資本主義による弱肉強食を是とする主張者の根拠とされやすいが、実はそうではなく、いやむしろその逆ですらある。」

ともすると、「神の見えざる手」という言葉のイメージが先行して、資本主義礼賛の祖と見られがちなアダム・スミスですが、実際には「資本主義の限界」についても厳しく指摘して、その部分についての修正の必要性も訴えているということが分かりました。

その点では、まったく正反対のイメージであるカールマルクスと同様の側面があるという印象すら受けました。

つまりこういうことです。

アダム・スミスもカール・マルクスも、「資本主義の限界」を「労働者と資本家との衝突にあり、結局は労働者の立場が敗北せざるを得ない」という結論に見ています。

そして、その解決方法として、前者は「資本家(経営者)のモラルの確立」に、そして後者は「生産手段の社会化」に求めていたという点が二人の相違点です。

ですから、どちらも「資本主義」が国の発展には必要であるという前提については同じです。

ちなみに、アダム・スミスは「経営者のモラル」の最低限のレベルを「労働者に対して、少なくとも家族を養っていくだけの賃金を提供すること」としています。

そして、このことを実現するために最も重要なことは、「独占」を何としても排除し、最も合理的に富が国にいきわたる「自由経済」の実現としています。

この「独占」の排除が「国富論」の中でアダムスミスが何よりも強く訴えていたことだという翻訳者の繰り返しの主張が非常に印象的でした。

この主張は現在の資本主義の限界を目の当たりにしながら、その次の解決策を見つけられないでいる私たち現代人にとっては、重要なものだと思います。

ただ、その主張があまりにも強烈だったので、原文に近い「超訳」も読んでみたいと思いました。

とはいえ、今回の「国富論」そして、前回の「マルクス経済学」という経済学の二大古典がともに、ここまで明確に「資本主義の限界」について警鐘を鳴らしているという事実に少なからず衝撃を受けたのは事実です。

 

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