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宗教の役割について

2014年3月30日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

先週、私の禅体験についてお話ししましたが、今回はそこからもう一歩踏み込んで「宗教の役割」について考えてみたいと思います。

と言いますのも、秋葉総本殿可睡斎の講話をいただいた部屋の壁に曹洞宗の開祖道元禅師の言葉が書かれていました。

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「回心向大:自分の宗教を信ずるあまり他の宗教をそしり果ては憎しみ争うほど愚かなことがあるでしょうか。正しい宗教はいつの時代にも人々を照らし、平和な生き方へと導くものなのです。宗教者同士が刃を抜いて争うことなどあってはなりません」

実は、私は今までの人生でこの考え方について二つのエピソードを持っています。

まず一つ目は高校時代です。私は、中学高校とキリスト教のミッションスクールで学びました。この学校には、ブラザー(修道士)が何人かおり、基本的には運営も彼らの考え方によって行われていましたが、その縛りは強くはありませんでした。

実際に、学校内には仏教のお寺の住職の息子も複数いました。そんな中、私はあるブラザーに、「ブラザーは自分の人生を神にささげると決めて修道士になったのならば、仏教のお寺の住職の息子にもその考え方を理解させ、できればキリスト教徒にしたいと思っているのですか?」と聞いたことがあります。

それに対してブラザーは、「いいえ、そんなことはありません。私は、たまたま神の御心に触れ、その考えを広げることで世界に貢献すべくブラザーになることを決めました。おそらく、彼らもまた御仏の考えを広げることで同じように世界に貢献しようとされるはず。それを否定するようなものではありません。」というようなことをおっしゃったと記憶しています。

高校生ながら、非常に心に響いたことを覚えています。

そしてもうひとつの経験は、アメリカでのホストマザーとの会話です。

日本人の多くが仏教を一応の宗教としていながらも「葬式は仏教、クリスマスはキリスト教、初詣は神道」といったようなスタイルをとるということを私が彼女に説明しました。

それに対して彼女はかなり不快感をあらわにしながら、「その考え方には賛同できない。なぜなら、宗教に対してリスペクトがなさ過ぎるから。自分は真剣に自分の宗教であるカトリックを心から信仰しているし、マサヒロもそうするべきだ。」といわれました。

私は、このときに先ほど説明した一つ目のエピソードを思い出し、険悪なムードになることを覚悟で以下のように伝えました。

「なぜ、MOMは神に会ったこともないのにそれを絶対視することができるのか僕には理解できない。もし、そのように主張するのなら、世界中のあらゆる宗教を隅々まで研究し尽くした上でカトリックが絶対的にすばらしい宗教だと証明すべきだ。カトリック以外の宗教を知りもしないのに、ひとつの宗教を絶対視することのほうが宗教に対してリスペクトがないと思う。」

少し言い過ぎたかなとも思ったのですが、彼女から返ってきた言葉で安心しました。「分かった。これ以上はあなたに強制はしない。強制するのはこの家の中では英語のみというルールだけにするわ(笑)。」

この二つのエピソードから、私は宗教という物の本質を誤解を恐れずに言えば、言語と同じような「ツール」として理解すべきではないかと思うようになりました。

つまり、「人智を超えた存在」すなわち人間の能力をはるかに超える世界をつかさどる大きな力を理解するための「見方」(ツール)ということです。人間同士で意思の疎通を図るために数多くの言語があるように、「人智を超えた存在」を理解するために数多くの宗教があるという具合です。

このように考えると、宗教対立などというもののおろかさが簡単に明らかになるような気がしませんか?

なぜなら、英語と日本語とを比べてどっちの言語が正しい、などと言い争うことと同じなのですから。そのそもその考え方自体がナンセンスということがすぐに分かります。

ただ、最近ではグローバル化の勢いが強すぎで英語という言語の重要性が多言語に比べて圧倒的なものになりつつあり、ナンセンスという言葉で簡単に片付けられない状況になりつつあるような気もしますが、、、

 

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