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知の編集工学

2014年9月14日 CATEGORY - 代表ブログ

知の編集工学

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「情報編集力」という概念について今まで、「キュレーション力」「売る力」「つなげる力」の三つの書籍を取り上げてご紹介しました。

今回ご紹介する「知の編集工学」はこの概念自体を作ったともいえる松岡正剛氏によって書かれたバイブル的な本です。

松岡氏は、古代から現代まで続く「情報」そのものの歩みを年表化するために各ジャンルの知識人を集め、「情報の歴史という大作を編纂したことで有名です。この活動の延長として「情報工学研究所」を設立しています。

また、「千夜千冊」という、同じ著者の本は2冊以上取り上げない、同じジャンルは続けない、最新の書物も取り上げるなどのルールを自らに課し、時に自身のエピソードやリアルタイムな出来事も織り交ぜた書評サイトを立ち上げたり、このような活動によって長年培ってきた編集的世界観に基づき、「イシス編集学校」を設立し、単なる文章術にとどまらない、プランニングからコーチングまでを幅広くカバーする「情報編集力」を広める活動をされています。

本書の読後の感想は正直に「素晴らしい」の一言です。

何年に一度出会えるかどうかといえるような、そういうレベルの一冊です。「編集」もっと言えばそもそもものを「考える」こととはどういうことかをかなりの深さで理解できる内容となっています。

最も印象深いと思った「考え方とは何か」の項目から以下引用してみます。(一部加筆修正)

「私たちは大体一日15時間以上おきて生活している。昨日の一日を思い出す。しかし、一日を思い出すのに15時間かかるわけではない。せいぜい5分で思い出すことになる。これは頭の中で一日の出来事が5分程度にダイジェストできることを示している。つまり、900分の情報を5分の情報に圧縮しているのだ。なぜこのようなことが起こるのか。次の例で説明する。たとえば、机の上にコップがあるとする。コップに注意を向ければ、そこに存在しているはずの空気とか机とかホコリとか、コップ以外のものは背景に消し去られてしまう。このことをどうとらえるべきか。情報には、『地』の情報と『図』の情報がある。『地』は情報の背景的なものであり、『図』はその背景に乗っている情報の図柄を指す。私たちはおおむね情報の『図』だけに注意しながら日常生活をしているといってよい。背景はあまりにも連続しすぎているのでそれを省いてしまうのだ。だからこそ、昨日一日のことを思い出す場合は、総計900分の情報の『地』から圧縮した5分だけの情報の『図』を取り出すことになる。」

まさに、この脳の記憶を再生する作業こそ、「編集」だと納得しました。そして、編集技術の巧拙というのが、すなわち、とかくあいまいな情報の『地』と『図』の関係を明確にして提示する能力の差なのでしょう。

また、別の角度からの文章をもう一つ引用します。

「あいまいな情報の『地』と『図』の関係についてであるが、このあいまいさ、つまり混乱をさまようことが『考える』ことである。前提としては、『図』の背景の『地』の情報、これがネットワークとして存在しているのだ。連想ゲームを思い浮かべれば分かりやすい。コップ ⇒ ガラス製品 ⇒ 日用品。ガラス製品とくれば、尿瓶、尿瓶とくれば病院。日用品とくればたわし、たわしとくれば掃除、という具合にそれぞれの『地』の中から『図』をハイパーリンクをたどってつかまえる活動ということになる。もっと言えば、思想とは結局、この活動の進行の航跡のことに他ならない。」

ということは、「考える」ことは、立体的に層をなす構造になっていて、「考える」いう混乱状態をさまよう活動を経て、層の上層において特定の視点から圧縮された情報を切り出すことが「編集」なのだとも同時に理解しました。

ちょっと本題とずれるかもしれませんが、コンピューターに関して以下のような言及がありました。

「コンピューターにおいては、この『考える』という進行を受け持つものはプログラミングである。プログラミングとは人間があらかじめネットワーク分岐の進行表を作っておくことをいう。そこに書かれている内容はごく単純な命令の繰り返しなのである。」

人間がコンピューターより優れているのは、そのネットワークがそれぞれの人間の存在の条件によって異なるからです。そして、偶然性の産物としてのそれぞれの組み合わせというネットワークによって圧倒的な多様性が実現されるからです。最近よく言われる「セレンディピティ」もこの多様性があってこそではないでしょうか。

そう考えると、インターネットによって世界中のコンピューターがつながるようになったという事実は、コンピューターの「考える」力に圧倒的な向上をもたらすことになるという理解に至ります。

なお、本書は1996年というインターネットがウィンドウズ95によって一般人に触れられ始めてから1年程度しか経過していない時点で書かれたものです。そのため、ウェブ3.0とよばれる大容量データをいくらでもネットワーク上でやり取りできるような現在の状況をさすがの著者もその時点では予測できなかったと見えます。そのため、インターネットのマルチメディア化にはかなり否定的な見解をもとに書かれていた点が非常に興味深く感じられました。

逆にこれこそが、人間の脳と社会性、すなわち偶然性の産物としてのそれぞれの組み合わせというネットワークによって圧倒的な多様性の実現によって引き起こされた「セレンディピティ」の予測不能性を証明しているような気がします。

「考える」ことについて「考える」非常に貴重な機会を本書に与えていただいたと思っています。

 

 

 

 

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