本当の「学び」とは
2017年12月13日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
私は常々全ての学びの基礎は「国語力」だと思っています。
私が、小学校英語教育に対して反対の立場をとっているのも、まさにそのように考えていることが前提にあります。
そのオールマイティな能力である「国語力」を最も鍛えなければならないこの大切な時期に、それ以外のものをやらせるということに問題があると考えています。
英語という未知の分野を、それがどのようなものなのかを理解する思考の「基礎」である国語力が身につく前に唐突に教え込もうとすることによって、その知識を十分に習得できないばかりか、「国語力」を鍛える大事な時間を失ってしまうからです。
私は、この全ての学びの基礎である「国語力」はどのように鍛えるべきなのか、それを体系的に整理することに成功した人の本を意識的に読むようにしています。
そんな視点で見つけた本がこの「伝説の灘校教師が教える一生役立つ学ぶ力」です。
著者は、すでにお亡くなりになってらっしゃいますが、平成24年の時点で100歳、そしてそのちょうど半分の時間を灘校の国語教師として勤められた橋本武先生です。
本書のタイトルにも「伝説の教師」とありますが、橋本先生の授業は「教科書を使わず、中学の3年間をかけて中勘助の「銀の匙」を1冊読み上げる」という型破りなものでした。
それは、単に作品を精読・熟読するだけでなく、作品中の出来事や主人公の心情の追体験にも重点を置いたもので、毎回配布する手作りプリントには、頻繁に横道に逸れる仕掛けが施され、様々な方向への自発的な興味を促す工夫が凝らされていました。
例えば、その中に「十干十二支」の話が出てくれば「横道に逸れて」、その事柄を納得のいくまで調べ上げるというもので、表面的な理解とは違う、「学ぶ」ことの本質に迫るものだったと言います。
私も、このことには、心から賛同することができます。
というのも、速読・多読がもてはやされる昨今にあって、私は一冊の本を読む時間が普通の人と比べて非常に遅いのですが、それはその本の中に出てきた自分の知らないことやうろ覚えの事柄についてインターネットで調べることにしているためです。
実はこのことこそが、読書、いや学ぶことの本質ではないかとも思うからです。
私の場合は、インターネットという便利なものを活用していますので、その「横道に逸れる」時間はそこまでではないのですが、橋本先生が灘校で教えていた時は、さぞ時間もかかったでしょうし、準備が大変だったと思います。
いや、橋本先生からすれば、だからこそ学習効果が高いと仰るのかもしれません。
また、いかに灘校が私立学校であったとしても、文部省が定めた学習指導要領に従わないどころか、教科書すら完全に無視することを自らの教師人生の半分以上にわたって行うということは、その全責任を自分自身が負うということでもあるので、その度胸と責任感にも大いに感銘を受けました。
そんな中で、特に印象に残った部分を本書から二か所ほど引用したいと思います。
「ただし、子供に対して『国語力』が大事だと言ってもしょうがない。自然とそう分かる、感じられるように持っていくのが教師、大人の役目です。目指すは心の糧になるような授業です。」
「国語力、論理性を鍛えることこそが、受験などという近視眼的な目標ではなく、人生の方々で待ち受ける難問にぶち当たった時、必ず役立つことになる。このことが『ゆとり』につながる。これが本当の『ゆとり教育』なのです。戦後のゆとり教育は私に言わせれば、『なまけ教育』以外の何物でもありません。」
灘校が、なぜコンスタントに東京大学に最も高い割合で生徒を送り込む学校の一つでいられるのか、それは純粋に「横道に逸れる」ことを本当の学びだと生徒に理解させ、それを楽しみながら行わせることで、知らず知らずに「ついでに」東大に合格させてしまうという、究極の「ゆとり教育」を行っているからということなのでしょうか。
私も子供時代に橋本先生の「銀の匙」の授業を受けてみたかった。