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武器としての「資本論」

2021年3月5日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

以前に大阪市立大学の斎藤幸平准教授の「人新世の資本論」を紹介しました。

この本は、現在の資本主義は明らかに限界を超えており、このままでは必ず最悪の終わりを迎えることは必至で、その最悪な結果を回避するためには資本主義に代わる新たなシステムとして「脱成長」を受け入れなければならないというものでした。

このような著者の主張の拠り所は、タイトルにあるようにカール・マルクスにより書かれた「資本論」であり、一般的には従来の経済学の常識からはかけ離れた主張であるととらえられがちです。

私個人としては、ブログでも書いたように大きな共感を覚えたのですが、マルクスの「資本論」を引き合いに出しながら現代資本主義を批判するような学者の主張が本当に世の中に受け入れられるのか、その点に大きな関心がありました。

それから少し時間がたったわけですが、斎藤氏の評価は受け入れられるどころかうなぎのぼりに高まっているようです。

そして、彼の評価の高まりに合わせて、マルクスの「資本論」をかつて持たれていたようなバイアスなしに冷静に見直すような著作が増えてきているように感じています。

今回紹介する白井聡氏の「武器としての『資本論』」もその一つです。

本書では、斎藤氏の「人新世の資本論」が資本主義の次の仕組みとしての「脱成長」という具体的な進む道を詳解してしているのに対して、私たちがマルクスの「資本論」を理解できるように解説した上で、私たちが「資本論」を武器として資本制に立ち向かう姿勢を示すことの重要性を訴えています。

つまり、前著よりも「資本論」を全体として理解しやすい内容となっています。

ですので、以下に本書を読んで理解した「資本主義(資本制)」の本質について自分なりにまとめてみたいと思います。

まず、資本制は、封建制(生産手段である土地が領主のモノであって、大衆はその土地に紐づけられて生産に従事し、その範囲で経済が回る制度)が崩壊したことで、生産手段である土地から大衆が解放され(希望したのではなく追い出され)、彼らがもつ労働力が自由に売り買いのできる「商品」となったことで成立しました。

そうすると、生産手段(資本)は増殖を始めます。

しかし、労働力以外のモノの交換価値は基本的に等しいので、資本の増殖のために必要な剰余価値は労働力からしか生まれません。

ですから、資本は労働力の交換価値をその使用価値よりも低く見積ろうとします。

それにより、労働力の買手である資本家が払う賃金は、労働者が再生産(労働者階級として存在し続けられる)される程度に落ち着くことになります。すなわち死にもしなければ余裕もないギリギリの水準に設定されてしまうことになります。

ですから、資本は、この労働力の再生産をギリギリ保ちつつ、剰余価値を最大化するためにイノベーションを起こして生産性を上げることになります。そして、プロセスは際限なく行われていきます。

あくまでも、このイノベーションは資本同士の激しい競争を勝ち抜き剰余価値を創出し続けるために行われるので、どれだけ生産性が上がっても基本的に労働者の賃金に余裕ができることはなく、ギリギリの水準で維持され続けることになります。

歴史上、アメリカのフォード社が労働者が裕福になれなければ消費者がいなくなってしまうとして、賃金水準を高めたり、日本の高度経済成長期のように資本と労働者が協力して経済を拡大することで賃金水準が高められた時代もありましたが、長期的にそれが実現することはありませんでした。

現在では非正規雇用が拡大していることからも、そのことは事実かと思います。

つまり、資本の本質というのは、この資本自体が剰余価値を生み出すことで自己増殖する運動そのものであり、永遠にこれは止まることがないというのがマルクスの主張です。

ただ、これは「資本」の性質がそういうものであるということであって、資本を悪者扱いするべき話ではありません。

事実、私たちはこのような性質を持った資本の増殖運動に乗っかって、それ以前の封建制の時代に比べて「豊か」になることはできました。

しかし、資本の増殖運動は永遠に止まらないので、いつまでもこの運動に乗っかり続けていると必ず最悪の終わりを迎えるざるをえないことを知っておくべきなのです。

そして、最悪の終わりを迎える前にこの無限ループから抜け出す決断をしなければならないのです。それをマルクスは「階級闘争」と呼んでいます。

本書のタイトルが「武器としての」となっているのはそのことを知ることで私たち個々人が正しい身の振り方をするべきだという著者の考えの表れだと思います。

 

 

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