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死の壁

2017年7月9日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回、養老先生の大ベストセラー「バカの壁」をご紹介しましたが、本書における養老先生の卓見に感動し、その続編である「死の壁」を続けざまに読みました。

前回の記事にて、養老先生のいう「バカの壁」が、各人の物事に対する理解や興味関心を他者と共有できないことによって生じるコミュニケーションの「障壁」であると私は理解したとお伝えしました。

今回は、その「バカの壁」が典型的に表れる「死」という分野について特集しています。

「死の壁」がなぜ典型的な「バカの壁」といえるのか。

それは、「死」が本当は身近に存在していて、他人とも常に共有することができるはずのものであるのに、現代人が社会から排除してしまったことによって生じている意図的な「バカの壁」だからです。

この「排除」が意図的に行われたのは、そんなに古くはありません。日本においては、戦後に行われたものです。

それまでは、核家族なんてものは存在せず、必ず人は幼い時から家族の誰かの死に直面したものです。しかも、火葬も現在ほど一般化されておらず、埋葬についても自分たちがたずさわることが当たり前でした。

それが、高度経済成長期を経て、私たちは人の死と直接かかわらずに済むようになっていきました。ここが養老先生の面白いところだと思いますが、ちょうどそれは日本において水洗便所の普及とちょうど一致していたという指摘をしています。

死も排泄も人間が自然のものとして存在している以上、どうしても避けられないことなのにもかかわらず、意図的に社会から排除し、私たちの視界から遠ざけてしまいました。

視界から遠ざけられれば、当然にして前回の記事の中で紹介したように、 y=ax の係数 aはゼロのならざるを得ません。すなわち当然にして我々は死に対して無関心になるわけです。

ここで、無理やり英語教育に結びつけてしまいますが、日本の英語教育がなぜ現在に至るまでこのように非効率な状態を放置し続けてきたのかという疑問は、英語教育における「バカの壁」が影響しているのではないかと感じました。

とはいっても、死や排便などと異なり、英語教育を意図的に排除する必要は感じられません。

それは、長い間、日本が英語を本当に必要とはしてこなかった、すなわち本当の意味での「必要性」がなかったから、 y=ax の係数 aはゼロですますことができていたということではないかということです。

学校では、授業という形で英語と触れる時間が確保されているけれども、それはただ、受験を乗り越えるためだけに必要なものに過ぎなかった。

実際に、社会に出て実際に英語を使って仕事をする人など1%にも満たなかった。

その必要性を感じさせられなければ、y=ax の係数 aが、プラスになるなんてよほどのことがなければありえなかったのではないでしょうか。

今の日本はどうでしょうか。

すべての人が、英語を必要としているとは言えないでしょうが、「英語の壁」を作っている場合ではない人の数は、確実に増えていることは言うまでもないことは確かだと思います。

 

 

 

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