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産業革命のキモは「無知の自覚」にあり

2021年7月25日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

今回も前回に引き続き、「サピエンス全史」から重大なテーマをいただいて書いてみたいと思います。

前回の記事では、「産業革命」が中国でもイスラム世界でもないヨーロッパで起こった理由として、「木と泥」と「鋼鉄とコンクリート」ほども違う「価値観や神話、司法の組織、社会政治的」にあり、それらはすぐに模倣したり取り込んだりすることができないものだったからだとまとめました。

その記事を書いている時にはその理由で納得したような気がしましたが、それでもヨーロッパにそれを作り出すことができて、他の地域ではそれができなかったという決定的な証拠としてはまだ弱い様なモヤモヤ感が正直ぬぐえ切れませんでした。

なぜなら、ヨーロッパ勢が大航海を実現するよりもずっと前、中国の明時代にはすでに鄭和がその何百倍もの規模の船団を仕立て、東アフリカまで遠征する実力を持っていたという事実があるからです。

ヨーロッパの船団が「鋼鉄とコンクリート」と言われ、その何百倍もの鄭和の船団をぞれよりも以前に実現した中国の技術が「木と泥」と呼ばれることにどうしても違和感を感じてしまったのです。

本書には、その違和感を解消してくれる説明が実はその後に控えていたので以下にその部分を引用します。

「ヨーロッパの帝国主義はそれまでの歴史で行われていた諸帝国のどの事業とも完全に異なっていた。それ以前の帝国における探究者は、自分はすでにこの世界を理解していると考えがちだった。征服とは単に自分たちの世界観を利用し、それを広めることだった。それとは対照的に、ヨーロッパの帝国主義者は、新たな領土とともに新たな知識を獲得することを望み、遠く離れた土地を目指して海へ乗り出していった。近代の『探検と征服』の精神構造は、世界地図の発展に照らして考えれば良く分かる。多くの文化が近代よりもはるか以前に世界地図を書いている。明らかに世界全体について本当に知るものは誰もいなかった。だが、よく知らない地域はただ省略したり、あるいは空想の怪物や驚くべき事物で満たしたりされた。そうした地図(図36)に空白はなかった。だからそれらは世界の隅々まで熟知しているという印象を与えた。一方でヨーロッパ人は空白の多い世界地図(図37)を描き始めた。この空白は世界の多くの部分について無知であることをはっきり認めるものだった。」

つまり、ヨーロッパ人の「無知の自覚」という姿勢こそが、「鋼鉄とコンクリート」そのものだったのではないかということです。

ただ、この考え方はすぐさまヨーロッパ世界において市民権を得たわけではありません。ヨーロッパでも、この考えに至るまでの生みの苦しみというべきものがたくさんありました。

例えばガリレオは「地動説」を唱えましたが、異端として宗教裁判にかけられ、職を失い、軟禁生活を送る羽目になってしまいました。また、その事実を知ったデカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の発刊を断念してしまいました。

もっと言えば、ダーウィンの進化論に関してすら、1996年になってようやくローマ教皇が「肉体については進化論を認めた」ことで限定的ではありますが、キリスト教と進化論は矛盾しないことを認めたぐらいです。

それは実にダーウィンが1859年に「種の起源」を出版してから137年もたってからのことでした。

しかし、重要なのは、このような混乱と苦しみを経ながらも、ヨーロッパ社会が自分たちの「無知の自覚」とその解消に取り組む努力を始めたということなのだと思います。

産業革命が他の地域ではなくヨーロッパにおいて起きたのは、「技術の大きさ」の問題ではなく、「考え方の方向性」の問題なのだということがよく分かりました。

 

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