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禅体験に思うこと

2014年3月23日 CATEGORY - 代表ブログ

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皆さん、こんにちは。

先日、金融機関の研修で「禅」の研修施設で有名な静岡県袋井市の秋葉総本殿可睡斎にて禅、精進料理、そして写経体験をさせていただきました。朝から夕方までの一日体験コースです。

まず、受付を済ませてすぐに、御上人に講話をしていただきました。その一部をお伝えします。

禅の宗派は(ものすごく)大きく分けると「曹洞宗」と「臨済宗」の二つに分かれ、今回お邪魔した可睡斎は曹洞宗のお寺です。

この二つの宗派の禅に対する考え方に大きな違いがあります。

まず、臨済宗では、禅を「悟りを得るための手段」として考えるようです。坐禅をする前には「公案」という課題を設定し、ひたすらそれについて「考える」ことで悟りを得ることを目指すのです。

一方、曹洞宗では反対に「只管打坐」。ただひたすら坐ること、これこそがお釈迦様の悟りの姿そのものと考えます。ですから、頭に浮かんでくる雑念に一切とらわれず「無」となることを目指します。

この講話の時点ではその「何物にもとらわれずただひたすら坐る」ことがどれほど難しいことかということは知る由もありませんでした、、、

もう一つ、いただいた講話の中で興味深かったこと、それは「縁」という考え方についてです。

「縁」を現代日本語で言い換えると「条件」となります。今私たちがここに存在することの「条件」は奇跡的であることを理解する必要があります。どのくらい奇跡的な条件の重なり合いなのかということを非常に分かりやすい説明で明らかにしていただきました。

私というひとりの人間が存在するためにどのくらいの人間の出会いという「条件」が必要なのか。

それを、例えば1000年という単位で考えてみます。一人の人間が子を持つ年齢を仮に25歳とします。1000年のうちに何世代の出会いが必要かは1000÷25=40世代ということになります。

すると、その数は2の40乗=1,099,511,627,776人となります。つまり、1兆995億1162万7776人です。このうち一人でも「条件」が合わなければ今の私という人間が存在することはあり得ないということです。

この事実を突き付けられ、「縁」について心から惧れを抱かずにはいられませんでした。

講話のあと、一度坐禅の仕方についてのレクチャーを受け、短めの坐禅を組みました。先ほども言いましたが、「何物にもとらわれずただひたすら坐る」ことがどれほど難しいことか、ここではじめて身をもって理解しました。

午前の坐禅が終わると、お楽しみの精進料理です。味は非常に上品でおいしく、いっさい動物性タンパク質を使用していないということなのですが、チーズのような味に仕上がった豆腐のようなものもあり、非常に工夫されているなと思いました。

精進料理

 

 

 

 

 

 

 

 

(可睡斎HPから)

 食事が終わると、写経です。この写経についても考え方は「坐禅」と同様、ただひたすら「無」を目指します。自分としては坐禅と比べるとひたすら無心に「書く」という作業がある分、「何も考えない」という状態に自分を置きやすかったような気がします。

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そして最後は、再び坐禅です。午前中の坐禅で「無」になることの難しさを痛感しましたので、今度こそ「無」になるぞ!と意気込んで取り組みましたが、あえなく撃沈。意気込めば意気込むほど、雑念は頭を巡り、その雑念を相手にしないようにすればするほど囚われてしまいます。

最悪なことに、先ほど食べた精進料理の消化が良すぎて、すぐにお腹がすいてしまい、帰りにどのラーメン屋さんによって行こうかなどといったことまで浮かんでしまう始末です。

本当に、修行が足りないということを痛感しました、、、

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(可睡斎HPから)

ともあれ、今回の研修では、自分という存在自体が「奇跡」であることを理解し、また自分自身がどれだけ弱い存在かということを身をもって理解できたこと、この二つについて気付きを得られたことに心から感謝をしたいと思います。

また、今回このような体験をすることで「宗教」について一歩踏み込んで考える機会を得たと思っています。次回は、「宗教」というものの意味について考えたことをシェアしてみたいと思います。

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