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国民のための経済と財政の基礎知識

2021年11月12日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

以前の記事にて、伝説の元マネートレーダー藤巻健史氏の「コロナショックを生き抜く(お金編)」を取り上げ、ただでさえ世界最悪水準の日本政府の債務がこのコロナ対応のための異次元の財政出動によってその額はぐっと増え、危機的状況にあることを認識しました。

その中で、著者はこの状況を一般家庭の借金状況に落とし込んで考える立場をとっているのですが、ご自身とは異なる「国と家庭は違う」という主張が存在することも認めています。

その「国と家庭は違う」という主張に対する著者の批判は私としては非常に納得できるものでしたが、実際にそのような反対意見の理論に触れてみなければ欠席裁判になってしまうとも思い、「国と家庭は違う」という立場を貫く元財務官僚で内閣参事官等を歴任されている高橋洋一氏の「国民のための経済と財政の基礎知識」を読んでみました。

高橋氏の主張を以下にまとめてみます。

「アベノミクス、そしてその方針が基本的に引き継がれている菅政権における日銀によるゼロ金利政策、そして日銀が市中銀行から日本国債を買い上げる量的緩和政策については、インフレ率2%を目標に掲げているにもかかわらず未だ目標に達成していないではないかという批判があるが、この批判は的外れであり、2%に達していないからこそ、まだ国債が買えるだけの話。インフレ目標に達するまでは財政出動しても財政が悪くならないという点でいいことなのだ。著者がこんなことを言えるのはアメリカのプリンストン大学時代の先生がFRB議長を務めたバーナンキで、直接薫陶を受けた唯一の日本人だからだ。」

藤巻氏はまさにこの日銀の異次元の政策が完全な「禁じ手」であり、本来の日銀の領分を超え、後戻りのできない領域に入ってしまったと指摘しているわけで、この高橋氏の考え方は藤巻氏の危機感と真正面から衝突するものです。

また、高橋氏は自身の考え方について次のように述べています。

「私にとって経済について考えることは、数学の問題を解く感覚に似たところがある。数学は原理原則にのっとって考えると自然に答えが出るが、経済だと理論と海外の数々の例から原理原則が導かれ、それらにのっとって考えると自然と日本がどうするべきかも見えてくる、という感じだ。経済とは数字、数学の世界であり、各国の文化・歴史の独自性にあまり左右されるものではない。」

高橋氏は一般人の感覚よりも経済学の理論を優先するべきだと主張するわけですが、経済というのは、理論だけではなく文化・歴史の独自性、もっといえば人間の感覚に左右されるものだというのが、私自身の偽らざる印象です。

例えば、高橋氏が言うように、インフレ率が2%にならないうちはいくら量的緩和をしても問題ないという考えは、日本政府の財政悪化と日本国債保有者の国債に対する信頼低下が完全に比例していることを前提にしているわけですが、藤巻氏の「コロナショックを生き抜く(お金編)」を読んだ私はそのことはとても受け入れがたく感じてしまうのです。

なぜなら、人間の感覚は終始比例的な動きをするものではなく、ある一点(閾値)を超えた時に一気に増幅され、それまで持ちこたえていた感情が崩壊すると考えるのが自然だと思うからです。

だから少なくとも私は、経済はあくまでも人間が作り出すもので、決して数学と同列に考えていいものではないと確信してしまうのです。

その意味で、私は藤巻・高橋両氏の著書を読み比べた結果、圧倒的に藤巻氏に軍配を上げたいと思います。

この差は何かといえば、藤巻氏が国際的なマーケットで体を張った取引をしてきたのに対し、高橋氏は官僚から経済学者となって理論中心に財政に携わってきたという両者の経験の「生々しさ」の違いにあるように思えます。

もちろん、実際に今後日本の財政の行く末を見定めなければその判定はできないわけですが、それは歴史が答えを出すものだと思います。

 

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