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「絶対安全」の危険

2021年9月24日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回に引き続き「DXとは何か」からテーマをいただいて書きたいと思います。

今回のテーマは「『絶対安全』にまつわるパラドックス」です。

ちょっと分かりにくいテーマ設定のように聞こえるかもしれませんが、私たち日本人がこれからも欧米に伍する文化水準を維持していくために必要な「科学的教養」の基礎の基礎の部分についてです。

このことに関する厳しくも実に正当な著者の主張を引用させていただきます。

「科学技術に対する教養がないまま原発事故や新型ウィルスなど科学的な大事件に触れると、判断の基準が『理性』より『感情』に傾き、『よく分からないから怖い』とか『うまくいかないのは裏に陰謀があるから』などとなりがちです。日本人の多くがそのような受け止め方をすると(メディアが)勝手に思い込めば、『視聴者の素朴な感情に沿った番組づくり』を錦の御旗に、より感情的な番組作りを使用として、その線に沿った発言をするコメンテーターが重用される。いわば視聴者とマスコミの共依存関係で感情の垂れ流しの連鎖が始まり、止められなくなる。素朴な感情的判断を否定するものではないが、とめどない感情の連鎖の危険性は過去の様々な悲劇で十分だろう。」

その上で、著者は上記のような悲劇を避けるためには、「正しく恐れること」を学ぶ必要があると指摘します。著者はこの考えを説明するために明治の物理学者で随筆家としても有名な寺田寅彦の言葉を引き合いに出しています。

実はこの寺田寅彦の「正当にこわがること」という考えについては私も以前の記事でご紹介しました。

この寺田の言葉についての詳細は当該記事をご覧いただければと思いますが、ここでは本書における著者の説明を引用します。

「重要なのはあらゆることを『程度の問題』として比較衡量できるだけの思考を身に着けるということだ。つまり、あらゆることに対して『絶対』は存在せず、安全も含めすべてのことが速『度』や精『度』と同じように『機能』として実装し、〇〇『度』で語るべきスペックの一つだと考える。そうすれば、全ての事柄が度(程度)という比較可能性のあるものとして冷静に把握することができるようになる。」

現在の世の中の状況的にも分かりやすいので「安全」の例で考えようと思いますが、これはつまり、「これをしていれば大丈夫」などと言う絶対的安全などどこにもなく、状況に応じてリスクとコストとのバランスで全体としての安全の「確率」をあげることでしか私たちは安全を担保することができないということです。

「絶対安全」にこだわるあまり、絶対に存在するリスクから目をそらすと、結果的に最も安全から遠ざかってしまうということがよく分かる事例を以下に本書から引用して終わりたいと思います。

「福島原発事故以前に原発事故の避難訓練をしようとしたら『事故は100%ないというから原発を作らせたのに、避難訓練をするのは事故があると思っているからだろう』との抗議を受けて訓練が沙汰止みになったという。」

DXとは全く別の話をしているように見えますが、実はこのことは生産性を高めるためにZOOMというデジタル技術を使っているにもかかわらず、画面に映る顔の序列を云々するような非生産性なマインドをもつことと、根本のところで共通していることが分かります。

今の日本には、このような事例が山ほどあるわけで、DXをうまくいかせることは相当に難しいことだと思います。

 

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