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翻訳と日本の近代

2019年2月8日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

私は、日本人の英語に対する本来あるべき姿勢についていろいろ書いているわけですが、そのあるべき姿勢を取ろうとすると必ず、日本語に対するあるべき姿勢に話がつながってしまいます。

このグローバル社会の中で、ここまでローカル言語を大切にしなければならないという主張をすべきヨーロッパ言語以外の言語は日本語くらいなものだと思います。

それは、私が日本語以外のローカル言語を蔑視しているからということではありません。現実的に、日本語という言語が抱えるグローバル文化にかかわる資産が他の言語に比べてあまりにも大きいからです。

それを可能としたのが、明治時代から続けられてきた「翻訳」という技術です。

このことについて、日本を代表する政治学者である丸山真男氏とこれまた日本を代表する評論家である加藤周一氏の二人がこの日本の近代を作り上げたといっても過言ではない「翻訳」について語り合ったのをそのまま書き起こした「翻訳と日本の近代」という新書を読みました。

両名ともすでに鬼籍に入られていますが、この知の巨人二名による議論は非常に読みごたえがありました。

明治以降の翻訳の日本語における重要性については、前述の通り、もはや語る必要もないほど認識していましたが、本書を読んで強く感じたのは、逆に翻訳の「難しさ」と「危うさ」でした。

本書からは、言語というのは言語そのものだけで成立することはできないものであるということの理解を改めて強制されたような気がします。

それを強く印象付けられた一節を以下に引用します。

「民権とは言うけれど人権と参政権とを混同している。人権は個人の権利であって、人民の権利ではない。だから国家権力が人権、つまり個人の権利を侵してはならない。人民が参政権を持つべきだというのを民権というとき、そこには個人と一般人民の区別がないと福沢諭吉は言った。日本人は、例えばフランス民法に関して、droit civil を『民権』と訳してしまった。しかし、それは財産権とかの民法上の私権のことなので、明らかに人民の参政権のような『民権』とは違ってくるわけだ。そのため、いまだに日本では『人権』が定着しずらいというところにつながっているのではないか。」

なるほど、と思いました。

そもそも日本の文化背景にその概念がない場合には、一つの西洋言語の単語を一つの日本語に「翻訳」することは不可能だという認識が必要です。

それでも、便宜上は無理して「翻訳」する必要があるので、そこには少なからず「誤解」が発生してしまいます。

日本語という言語が抱えるグローバル文化にかかわる「資産」という認識とともに、「負債」という認識も持つべきかもしれません。