読書という荒野
2020年11月1日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
前回、「死という最後の未来」をご紹介しましたが、その著者の一人である石原慎太郎氏を心の底から愛してやまない幻冬舎の社長見城徹氏の「読書という荒野」を読みました。
彼については過去に記事を一つ書いています。
本書のテーマは、「自己検証」「自己嫌悪」「自己否定」この三つを繰り返して成長することが「人生を切り開く」ということだというもの。
この三つを繰り返すには、自分自身の人生における経験だけでは、それを何度も何度も繰り返しにはとても足りない。
だから、「読書」を通じて他人の人生における経験を借りて、それを実現するということ。
著者は本書でその経験を次のように語っています。
「本を読めば自分の人生が生ぬるく感じるほど過酷な環境で闘う登場人物に出会える。その中でわが身を振り返り、きちんと自分のズルさや狭量さ、怠惰さを発見し、向き合って、反省することを繰り返す。読書を通じ、情けない自分と向き合ってこそ現実世界で闘う自己を確立できる。」
このテーマは、まさに見城社長が自分自身の人生で実践していることで、そのために見城社長の読書はそれこそ「壮絶」極まりないものになります。
まさにその行為は「荒野」そのもの。
見城社長は、その自分に足りない部分を個人的な読書で補ってきていますが、仕事として世の中に読書経験を提供する「出版」を選択しています。
ということは、普通の人の経験ではめったにお目にかかれない「極端」なものを世の中に出し続けなければならないということです。
であるならば、「出版者」としての自分もその作家以上に「極端」である必要があることを自覚していたのではないかと思われます。
その自覚が本書の次の一節に表れているような気がしました。
「現実の我々は死に向かって一方通行に進んでいる。明確な期限が定められているからこそ、限られた時間の生産性を高める必要が生じ、貨幣や法律といった社会システムができた。同時に、死の恐怖は様々な作品や思想をもたらした。我々が生きている世界は、死によって規定されていると僕は考える。死について考えることができるのは人間だけである。人間と同じく、動物もいつか死ぬ。しかし、言葉を持たない動物は、自分の時間が有限であることを理解しない。だから、死を思わない人間は、動物と変わらない。言葉を持たない赤ん坊が動物と変わらないのと同じである。」
有限であることを認識できることが「人間」と動物を分けている。だから、人間であることを自覚するなら、「極端」である必要があるともいえると著者は言っているように思います。
この文章を読んで、私も少しだけ「自己検証」「自己嫌悪」「自己否定」をしてみました。
実際にやってみると、著者のように人生が続く限りこれを続けることは本当に難しいことだと感じます。
私の中では、見城徹社長は孫正義社長に次ぐ、すごすぎて参考にできない人であるという認定をせざるを得なくなりました。