「贈与」のリレーに加わるということ
2021年4月22日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
前回、「世界は贈与でできている」をご紹介しましたが、この本の内容があまりにも「深い」ものだったので、言いたいことが一回の記事だけでは収まりませんでした。
ということで、前回に続いて書きたいと思います。
本書の内容のどこが「深い」のか、その深さはこの「贈与」というものが存在する上で重要なことが、贈与する側がそれを受ける側にその行為をした主体であることを「知られてはならない」という点にあります。
「知られてはならない」ならば、誰にもほめてもらえないし、コストがかかっている場合、その回収はどうすのるのか「持続可能性がないじゃないか」と思うかもしれません、もちろん私も思いました。
しかし、そう思うこと自体が、私たちが完全に「贈与」ではなく「交換」の論理に縛られてしまっている証拠であると著者は言います。
「交換」の論理は「資本主義」と言い換えることができますが、この考えに生まれた時からどっぷりつかってしまっている私の考え方を多少なりとも「贈与」の本質に寄せてくれる瞬間があったのでどうしてもその部分をご紹介したいと思いました。
それは、著者が漫画家ヤマザキマリ氏の「テルマエロマエ」で、ローマ時代の浴場設計士である主人公ルシウスが現代の日本にタイムスリップして、現代の様々な科学技術によって実現されている当たり前の「モノ」一つ一つに驚き、それをローマ時代に戻って広めなければと思って奮闘するのを引用して以下のような指摘をしている部分です。
「ルシウスは自分が見知ったもの、受け取ったものに対してそれをシェアしなければという使命を感じます。よもや、それを持ち帰って一獲千金を狙おうなどとは全く考えていません。ルシウスが手にした贈与には差出人がいません。なぜなら、彼が手にしてのは、『ただたまたまそこにあったもの』だからです。そのため、何の根拠もなく、偶然手にしてしまったものを独占するわけにはいかない。ルシウスが手にしたものは、『これをローマに持ち帰らなければならない』と彼が感じたその瞬間に贈与に変わったのです。」
今現在、私たちが手にすることができる財やサービスは「当たり前」ではありません。
「いや、だからお金を払っているではないか」
と言われるかもしれませんが、その発言は、実は現在の社会が出来上がるまでには、「お金」や「名声」という報酬を受け取らずに、その存在に貢献してきた人が数限りなくいるであろうことに想像力が及ばない人の発言だと言えます。
上記の説明をじっくり読みこめば、「交換」される「お金」の額はその財やサービスの価値をきちんと評価しているものとは言えないことを理解できます。
「お金」や「名声」という報酬を受け取らずに、その存在に貢献してきた人のことを著者は「アンサングヒーロー」と呼んでいますが、それは会社の「先輩」かもしれないし、それぞれの家の「ご先祖」かもしれないし、「地球環境」かもしれない。
もって言えば、私たちが「神」や「仏」と呼ぶものもそれにあたるかもしれません。
本書によって、自分も「知られてはならない」アンサングヒーローとしてこの「贈与」のリレーに加わらなければならない「必然性」を思い知らされた気がします。