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非言語コミュニケーションの力

2014年7月13日 CATEGORY - 代表ブログ

飛べ!ダコタ

 

 

 

 

 

 

皆さん、こんにちは。

先日、「飛べ!ダコタ」という日本映画を見ました。この映画のあらすじはこんな感じです。

終戦から5か月後、上海から東京へイギリス総領事を送る途中だったイギリス空軍要人機ダコタが悪天候に見舞われ、佐渡島の海岸に不時着する。ダコタは砂に埋もれ、滑走路もないことから乗組員は島にとどまることを強いられる。敵国であったイギリス軍人を前に戦争で家族を失った者、いまだ戦地から戻らぬ息子を待つ者も少なくない住民たちは初め複雑な感情を抱くが、次第に心を開き始め率先して彼らを温かく迎え入れる。最後は住民と英国乗組員の共同作業でダコタ帰還のための滑走路を建設するという流れを通して描かれる戦争や国境という壁を越えた感動的な物語。」

この映画によって強く印象付けられた点が二つあります。一つは、コミュニケーションに占める言語の役割は限定的にすぎないということ。それからもう一つは戦争を引き起こすのは誰かという認識についてです。

まずは一点目について。

この物語の中で描かれる外国人と佐渡という日本の中でも閉ざされた場所の住人との異文化交流の中で繰り広げられる「疑心」「葛藤」「衝突」を経て「相互信頼」に至るまでの流れはグローバル社会における日本人ビジネスマンに対して「教科書」的な役割を果たすのではないのかと感じました。

この映画の中で繰り広げられる「異文化交流」はかなりレベルの高いものです。その証拠に最終的には住人、英国人乗組員の誰もがその交流の主人公となっていました。しかし、その間を取り持つツールとしての「言語」が活躍する様子はほとんど見当たりませんでした。もちろん両者の間でテクニカルな問題のやり取りには通訳が入りますが、その役割は非常に限定的であり、ほとんどの交流は非言語的コミュニケーションを通じて行われていました。

にもかかわらず、住人と英国軍人の共同チームは佐渡の海岸に500Mにもわたる石造りの滑走路を敷設するという大きなプロジェクトを短期間で成し遂げるという実質的な成果をあげています。

メラビアンの法則というものがあります。コミュニケーションにおける言語と非言語の要素の占める割合を数値化したものです。具体的には、声のトーンや口調は38%、ボディーランゲージは55%そして言語の占める割合は7%にすぎないと言われています。

私自身が言語を職業にしていることもありますが、この法則の「言語の占める割合が7%」にすぎないという部分についての真偽には個人的に疑問を持っていました。少なくとも50%くらいはあるのではないかという認識でした。しかし、図らずもこの映画を見ることによってこの法則の正当性を納得した形となりました。

それから二点目。

たった5か月前まで敵国人であった英国人との交流を描く中で住人と村長の間で以下のようなやり取りがありました。

住民A「なんしてあんないい人たちと戦争なんてしたんじゃ?だれがあの人たちと戦争やろうなんて決めたんじゃ?」

住民B「そりゃ軍部じゃ、天皇陛下も私らもみ~んな軍部に騙されとっちゃんじゃ。」

村長「い~や、わしらじゃ。わしらが戦争をはじめたんじゃ!」

住民「なんでや?村長さん、わしらみたいな田舎の百姓が戦争をはじめたなんてどういうことじゃ?」

村長「わしら、いつまでも戦争をはじめたのは誰かに騙されてたからと思ったままじゃ、また次の戦争も止められん。」

この村長の言葉は日本人の心に非常に鋭く突き刺さるべきものだと思います。

軍部のせい、政治家のせい、新聞のせい、我々はいつも誰かのせいにします。しかし、村長の言うように一人一人が戦争の「雰囲気」という名の魔物に負けたせいだという認識を持たなければ、必ず過ちは繰り返される。

私たちは意識的にこの認識を新たにする習慣を身に着けなければ、時間の経過とともにまた「雰囲気」という名の魔物に付け入る隙を与えてしまうと思います。

この二つのことについてひしひしと考えさせられる素晴らしい映画だと思います。

 

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