
AIには人間の能力を凌駕してもらわなければならない
2025年1月10日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
前回、一橋大学の楠木教授の「仕事と生活についての雑記」という書籍をご紹介しましたが、その中のトピックで一つだけどうしても特別に取り上げたいものがございまして、今回はそちらのテーマで書きたいと思います。(しかもこのテーマはついこの間取り上げた「AIにヒトは支配されるのか」の記事に近いものがあります。)
それは、昨今ではもうお決まりの「AIは人間の能力を凌駕するか」とか「人間はAIに仕事を奪われるのか」という疑問に対する著者の回答です。
これに対する著者の回答は、「AIには人間の能力を凌駕してもらわなければ意味がない」し「凌駕するに決まっている」という大方の予想を完全に覆す意外なものでした。
そのこころは、以下のようなものになるでしょうか。
本書の該当部分を大幅に要約した上で私自身の表現もちょっとだけ混ぜ込んでまとめてみました。
「AIは人間の能力を凌駕するか」という疑問は、「ショベルカーや新幹線が人間の力を凌駕するか」というのと同じで、凌駕するに決まっている。いや、凌駕してもらわなければ『技術』としてのインパクトは小さすぎて使い物にならない。
なぜ、人間と比べ数百倍の効率でがれきを軽々撤去できるショベルカーも遠くまで走れる新幹線も『味方』なのに、AIだけ『敵』だと認識するのか。
それはその人たちがそれまでの職業生活の中でどのような価値の創造に貢献してきたかということを如実に表していると言えるのではないか。
結局、ショベルカーや新幹線を使って「何をしたいか」という問題提起のみが「価値の源泉」だということ、だからAIが進歩したらそれだけ「何をしたいか」のレベルが上がり、よりすばらしい世界を作ることができるということになる。(人間の歴史はこれを継続的にやってきた。)
逆にいえば、人間の仕事の本質とは次の三つのいずれかに収斂しているはず。
「何をしたいか」という問題提起をすることと、ショベルカーや新幹線よりもずっと繊細な技巧をもってしてそれを行うこと、そしてもう一つは、それを「好きで好きでたまらない」からこそそれを行うということ。
今、ショベルカーや新幹線と同じ仕事を、自分の方がうまく、そして喜んでやろうとする人がいるのかを想像してみるべきだ。
もう、両方の頬を往復でひっぱたかれたような衝撃と恥ずかしさを思えました。
そこで思い出したのが次のイソップ童話の中での一節です。
レンガ仕事をしている三人の職人に旅人が、「ここでいったい何をしているのですか?」という質問をしたら、
一人目は、「レンガを積んでいる。」
二人目は、「大きな壁を作っている。」
三人目は、「歴史に残る偉大な大聖堂を造っている。」
おそらく、二人目くらいまでは、AIはもちろんのこと、ショベルカーや新幹線をも「敵」とみなす可能性がありますが、三人目は、その時点で存在するすべての技術を喜んで「味方」に付けるはずです。