代表ブログ

ノーベル文学賞はノーベル翻訳賞?

2020年10月9日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

2020年度のノーベル文学賞の受賞者の発表が10月8日にありました。

毎年のように候補に挙がる村上春樹氏の受賞は残念ながら今年もならず、がっかりしたハルキストは多いと思いますが、もはやそれもこの時期の風物詩と言えるかもしれません。

そんなハルキストの心を少しだけ慰めてくれるような興味深い記事を見つけましたのでその一部を引用します。

「ノーベル文学賞の『受賞資格』をご存じだろうか。たとえば、日本でもっとも有名な文学賞『芥川賞』は、作家の国籍は問わないが、作品の出版国は日本、使用言語は日本語と(暗黙の了解で)決まっている。ノーベル文学賞にはそういう縛りがいっさいない。どこの国の作家が、何語で書いて、どこの国で出版していても理論的にはOK。とはいえ、スウェーデンアカデミーの審査員十八人全員が、何百、何千もの言語に通じているわけがない。どうやって読むかといえば、翻訳したものを読むのだ。スウェーデン語、フランス語、ドイツ語、英語が多い。そう、審査員さんたちのほとんどは、1968年に受賞した川端康成の日本語も、1994年に受賞した大江健三郎の日本語も、じかには読んではいないのだ。そう考えると、ノーベル文学賞の栄冠を勝ちとるには、その作家本人が良い仕事をしているだけでは充分とは言えないだろう。翻訳者の技量や力量が占めるウエイトは大きい。だから、川端康成は授賞式で、『わたしの小説の翻訳者サイデンステッカー氏にも半分の名誉をと言ったのだ。」

このように考えると、評価の対象となるヨーロッパ言語への原作言語からの転換、しかも言語の由来も文化背景全く異なる日本語からの転換を考えると、もはやこの賞はこの記事に書かれている通り、ノーベル文学賞が「ノーベル翻訳者賞」と形容されるべきという考えにも一理あるように思います。

まあ、ノーベル賞という賞がスェーデン人であるアルフレッド・ノーベルの遺言によって創設されたものであるため、私たち日本人がそれをもって「不公平」だと不満を言うのもおかしな話ではありますが。

この記事の中でも次のように言われていますし。

「ノーベル文学賞はヨーロッパの文学を称揚するために始まったものだし、審査するスウェーデンアカデミーはアメリカのことがあまり好きではない。ひとつには米国が強大な英語帝国で、他国語の文学をぜんぜん翻訳しないし、読まないから、という言い分がある。伝統あるヨーロッパ諸国の文学界から見れば、アメリカ英語帝国め、大きな顔して……という気持ちがないではないだろう。」

英語を母国語にしていて、ヨーロッパの文化を背景にしているアメリカでさえこのような扱いなのですから、言語も文化も全く共通性のない日本の文学がこの賞を取ることは舞の海が曙に勝つより難しいことだと思えてきます。(例が古いか?)

その意味で言えば、毎年のように候補に上り、あのなんでも賭けの対象にするイギリスのブックメーカーのオッズでいつも上位に上る実績だけで、ご本人はもちろん、ハルキストの皆さんも十分に納得してもいいのではと私は思います。

ただ、今回の受賞者はノーベル賞側が嫌うそのアメリカの詩人、ルイーズ・グリュック氏でしたが。(笑)

 

◆この記事をチェックした方はこれらの記事もチェックしています◆