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死という最後の未来

2020年10月30日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

こんな時節だからこそ、こんな二人が、こんなテーマで、対談している非常に興味深い本を読みました。

元日本財団理事長で作家の曽野綾子氏と元東京都知事で作家の石原慎太郎氏の「死という最後の未来」です。

生死に対する考え方が真逆すぎる二人の対談がなかなかどうしてそれなりに進んでいくことになんとも妙な感覚を覚えました。

何事にも「なすがまま」という達観した死生観を持つ曽野氏の掌の上で、なんでも自分自身で運命を切り開き、世の中のすべてを知り尽くすまで死にたくないとする石原氏が面白いように転がされているような感覚が最初から最後まで続くのです。

あの短気な石原氏がいつ癇癪を起すのかとハラハラしつつも、最終的にそのような場面は一度も起きずに実に「心地よく」対談は終了します。

石原慎太郎が老いによって丸くなったのか、それとも曽野綾子という人がお釈迦様のような底知れぬ人間の大きさゆえに、石原氏がそう見えざるを得ないのか。

私としては、最後の最後までどちらなのか判断しかねましたが、本書における印象的だった一節を以下に引用します。

石原:だって、死は人生との決定的な別れですからね。去りがたいですよ、この世を。

曽野:死ぬのも自然なことですけれどね。

石原:つまらん。つまらんです。

曽野:だから、その日が来るまで、存分になさればいい。私は50歳になった時から、寝る前に「3秒の感謝」というものをするようになりました。「今日までありがとうございました」と言うんです。もしもその夜中に死んだとしても、けじめをつけたことになるでしょう。死ぬということは、いい制度だと思いますよ。

石原:いい制度?

曽野:そう。だってそうでしょう、「あなた自由にやりなさい」とずっと生きていたら、どこで辞めたらいいかわからないじゃないですか。(笑)永遠に命があったら、疲れますよ。死なないということは最高の罰でもあるんです。

石原:昔、ハリウッド映画でそういう内容のものがありました。死ねない人たちの町があって、気分のいい映画ではなかった。まあ人は老いて、必ず死ぬのは分かっています。しかし、僕はまだ死にたくないね。それまでをどう生きるか、いかに存分に使い切るかということでしょうね。

曽野:そう思います。生き続けているということには意味があるのでしょう。

私はいつかは曽野氏の心の境地に到達したいと思っていますが、現状の感覚としては石原氏のほうに共感したというのが正直なところです。

そんな私は、この対談の流れを追う中で終始、自分自身が曽野氏の掌の上で、転がされ、何か恥ずかしいような、悔しいような、どうしても人間としてかなわないなという何とも言えない気持ちにさせられてしました。

曽野綾子氏との対談中、最後まで考え方が異なっても一度の癇癪を起さなかった石原氏は、もしかしたら私と同じように「何か恥ずかしいような、悔しいような」気持ちになっていたのではないかと、大変恐縮ではありますが邪推せざるを得ませんでした。

 

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