日本人と英語

文学の文章が「高尚」で「まどろっこしい」理由

2021年11月18日 CATEGORY - 日本人と英語

以前にご紹介した「英語文章読本Ⅱ」からテーマをいただいて書きたいと思いますが、今回は、普段の英語学習に技術的に資するような内容とは異なり、「文学」という少し大所高所から論じるテーマにできたらと思います。

そのテーマとはズバリ、文学の文章が「高尚」で「まどろっこしい」理由です。

というのも、私は今まで何度も、読書を趣味としながらも文学、特に小説を読むのが好きではないと告白してきましたが、その一番の原因は文学の「高尚」で「まどろっこしい」文章にあります。

ですから、前著「英語文章読本」や本書「英語文章読本Ⅱ」といった本を読むことはそれ自体がかなりの勇気がいりました。

しかしながら、本書にはなぜ文学の文章が「高尚」で「まどろっこしい」のかについての直接的な説明が書かれており、その説明が英文学、日本文学に関わらずかなり説得力をもっていましたので、通常の「日本人と英語」ブログと趣が違ってもここで引用しておきたいと思った次第です。

「『小説らしい文章』について批評家や編集者といったプロの方々が一致して持っておられる答えははっきりしています。何より大事なのは『描写』。素人は『説明』してしまうという。しかし、この描写という言い方はなかなか曲者です。描写というものに、特に文法があるわけではない。小説的文章の描写とは、概念や理性では整理できないくにゃぐにゃしたものを、ぐにゃぐにゃしたまま表現するものです。普通の言葉では言えないもの。名詞と動詞を中心とした文のシステムには回収しきれないもの。そういうものを『言葉にならない』と嘆きつつかろうじて口にしていく、そのアップアップの感覚が描写の緊張感を生むのです。紋切型の表現を連ねて惰性で書かれた文章であれば、私たち読者だってわざわざ丁寧に読もうという気にはならない。」

ここでかつて「私が小説を敬遠する理由が分かりました」という記事で自分自身が小説が嫌いな理由について次のように書いたことを思い出しました。

「詩(多くの小説が含まれる)の定義は世界を間接的に表現するものだから」

この「描写」という表現を追求した小説を楽しむということは、「高尚」で「まどろっこしい」文章をこそ楽しむことなわけです。

自分自身も物事を直接的に「説明」したいと思っているし、他の人の「説明」もできるだけ直接的であってほしいと願っている私のような野暮な人間とはそもそも相容れないというわけです。

なんてったって、「紋切型の表現を連ねて惰性で書かれた文章」を好き好んで読んでいるわけですから。(笑)

ですが、このように文学における文章の説明をここまでストレートに説明されることによって、「小説らしい文章」という世の中のおそらく半分、いやそれ以上存在するであろう人たちが求める文章に出くわしたときに、それらを「読めない」という最悪な事態を回避することはできます。

実際、本書の紹介ブログでも書いたように、私自身明らかに英語力全体の底上げにつながったという実感があります。

 

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